第14話 十七歳
十七歳になったセレナは、王宮の廊下を歩いていた。
腕には、財政や領地経営に関する本が何冊も積まれている。
あと一冊。
あと一冊だけなら持てる。
そう思ったのが間違いだった。
一番上の本が傾く。
「あ」
落ちる。
そう思った瞬間、横から伸びた手が受け止めた。
「危ないよ」
「……ありがとうございます」
顔を上げる。
見慣れた緑の瞳があった。
「持つよ」
「大丈夫ですわ」
「大丈夫じゃなかったでしょう」
返す言葉がない。
アルベルトは半分どころか、ほとんどの本を持っていった。
「アル。そんなに持たなくても」
「僕の方が力あるから」
そのまま歩き出す。
セレナも隣に並んだ。
少し前まではまだ自分より小さかったのに、今では見上げなければ顔が見えない。
「今日はお早いんですのね」
「終わらせた」
「政務を?」
「うん」
「もう?」
「セレナとお茶したかったから」
さらりと言って、角を曲がる。
セレナはそのあとを追い――少しだけ遅れた。
昔からこうだ。
時々、こちらが困るようなことを、何でもない顔で言う。
「セレナ?」
アルベルトが振り返った。
「なんでもありません」
追いつくと、ふわりと甘い香りがした。
バニラ。
小さな頃から変わらない。
最初は可笑しかったのに、いつの間にかすっかりアルベルトの香りになっていた。
風が通り、薄い金髪が揺れる。
「どうしたの?」
「はい?」
「見てたでしょう」
「見てません」
「見てたよ」
「……少しだけです」
アルベルトが足を止めた。
さらりと長い前髪が目元へ落ちる。
「触る?」
「結構です!」
笑われた。
悔しい。
小さな頃はもう少し可愛かった気がする。
◇
庭へ出たところで、聞き慣れた声がした。
「姉上!」
振り向く。
ルシアンがこちらへ歩いてきた。
十四歳になった今も、蜂蜜色の髪には柔らかな癖が残っている。
「ルシアン様」
「また勉強?」
「ええ」
ルシアンがアルベルトの腕に積まれた本を見る。
「その量?」
「ほとんどアルが持ってくださっていますけど」
「兄上、甘やかしすぎじゃない?」
「重いから持ってるだけ」
「はいはい」
相変わらずだ。
三人で歩いていると、ルシアンがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば」
「なんですの?」
「なんで僕、姉上って呼び始めたんだっけ?」
「あら」
言われてみれば、ずいぶん昔のことだ。
「確か……」
記憶を辿る。
「アルですわ」
「僕?」
「アルが、わたくしをセレナと呼ぶなと」
ルシアンが兄を見る。
「兄上が?」
「覚えてない」
妙に返事が早い。
セレナはもう少し記憶を辿って――思い出した。
「ああ。焼き菓子ですわ」
「焼き菓子?」
「アルがお菓子で買収したんです」
ルシアンが足を止めた。
「僕、買収されたの?」
「四つで」
アルベルトが答えた。
「覚えてるじゃん!」
「今思い出した」
「絶対嘘だ!」
セレナは吹き出した。
「わたくしがルーと呼ぶのも嫌だとおっしゃって」
ルシアンがにやりと笑った。
「じゃあ、今日からセレナって呼ぼうかな」
アルベルトが足を止める。
「セレナ」
わざとだ。
「ルシアン」
アルベルトの声が低くなった。
「冗談だよ、兄上。かわらないなぁ」
ルシアンは楽しそうに笑った。
やがて分かれ道まで来る。
「じゃあ、僕はこっちだから」
「ええ。また後で」
「またね、姉上」
「はい、ルシアン様」
ひらひらと手を振って、ルシアンが去っていった。
◇
東屋のテーブルには、二人分の茶器が用意されていた。
アルベルトは本を置くと、セレナの隣の椅子を引いた。
向かいではない。
隣だ。
「そちらに座りますの?」
「うん」
「向かいが空いていますけど」
「知ってる」
そう言って座ってしまう。
昔から距離が近い。
小さな頃は頭を撫でろと寄ってきて、少し大きくなる頃には、可愛い顔で甘えることまで覚えた。
そして十七歳になった今も。
「近いですわ」
「嫌?」
「嫌ではありませんけど」
「じゃあいいでしょう」
「よくありません」
肩が触れる。
アルベルトは気にする様子もなく本を開いた。
セレナは小さく息を吐いて、紅茶へ手を伸ばす。
「だめなの?」
少しだけ首を傾げる。
長い前髪がさらりと落ちて、緑の瞳がセレナを見る。
「…………」
まただ。
「その顔、ずるいですわよ」
「どの顔?」
「分かっていらっしゃるでしょう」
アルベルトの口元が緩んだ。
やっぱり。
「で、だめなの?」
「……だめじゃないですけど」
「ほら」
「何が『ほら』ですの!」
笑われる。
分かっているのに、どうにも弱い。
腹立たしさをごまかすように、セレナは焼き菓子を一つ取った。
バニラの香りがするもの。
木苺のジャムを挟んだもの。
ナッツを散らしたもの。
好きなものばかりだ。
「いただきます」
「どうぞ」
一口かじる。
おいしい。
それだけで少し機嫌が直る自分も、なんだか悔しい。
アルベルトはもう何事もなかったように本を読んでいる。
セレナも本を開いた。
風が木々を揺らす。
頁をめくる音。
紅茶の香り。
その隣に、馴染んだバニラの甘さ。
穏やかな午後だった。
「――東部の報告は?」
ふいに声が聞こえた。
庭の向こうを、二人の文官が歩いている。
「今朝、届いたはずです」
「では、あとで回してくれ」
「分かりました」
二人の声はすぐに遠ざかっていく。
セレナは本へ目を戻した。
けれど、文字を追っていた指だけが止まっていた。
東部。
その言葉には、十七歳になってから意識して耳を傾けている。
まだ何も起きていない。
今の会話だって、ただの報告書の話だ。
それでも。
今年だった。
前の人生で、流行り病が始まったのは十七歳の春。
セレナは顔を上げた。
冬の名残を残す枝の先に、小さな芽が膨らみ始めている。
「セレナ?」
隣から呼ばれる。
「なんですの?」
「どうしたの?」
「……いいえ」
もう一度、本へ目を落とした。
風が吹く。
枝先が、小さく揺れた。
もう、春は近い。




