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黒塗りの高級セダンの中。
運転席の男がバックミラー越しに静かに問いかけた。
「宗一郎様。」
「お降りにならなくてもよろしいのですか?」
宗一郎は窓の外へ目を向けたまま、小さく微笑む。
「あぁ……。」
「伊吹が、あんなにも楽しそうに笑っている。」
「そんな姿を見るのは、久しぶりでな。」
少しだけ目を細める。
「もう少しだけ……。」
「眺めていたくてな。」
運転手は穏やかに微笑み、静かに頷いた。
「左様でございますか。」
「とても良いご友人に恵まれたようですね。」
宗一郎は何も答えず、ただ娘たちの笑い声へ耳を傾ける。
やがて朝陽たちの話が一段落したのを確認すると、ゆっくりとドアを開けた。
長身の男が車から降り立つ。
その姿を見つけた源吾と緑山は姿勢を正えた。
宗一郎さんは二人へ軽く会釈を返すと、真っ直ぐ神白さんのもとへ歩いていく。
「伊吹。」
その優しくも威厳のある声に、神白さんはハッと振り返った。
「お父様。」
神白さんは姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「この度は、ご心配とご迷惑をお掛けしてしまい……。」
「誠に申し訳ありませんでした。」
宗一郎さんは神白さんの前で足を止める。
「青嶌から、事情は聞いている。」
穏やかな声だった。
だが、その一言には当主としての重みがあった。
「一人で解決しようとしたことは……。」
「到底、受け入れられるものではない。」
神白さんは唇を噛み、静かに俯く。
「……はい。」
宗一郎さんはそこで言葉を切ると、俺たちへ静かに視線を向けた。
互いに傷だらけになりながらも、胸を張り立っている少年少女たち。
その姿をしばらく見つめ――。
小さく息を吐いた。
「……まあ、よい。」
再び神白さんへ視線を戻す。
「他人を思い、自らの危険を顧みず行動したこと。」
「その一点については――。」
宗一郎さんの表情がわずかに柔らぐ。
「伊吹の父として、お前を誇りに思う。」
「……っ。」
神白さんの瞳が大きく揺れる。
「お父様……。」
その声は、今にも涙が零れそうなほど震えていた。
宗一郎さんはゆっくりと俺たちの方へ向き直った。
その視線には、当主としての威厳ではなく、一人の父親としての感情が宿っていた。
「皆さん。」
「この度は、私の大切な娘を助けてくださり、本当にありがとうございました。」
そう言うと、宗一郎さんは腰を九十度近くまで折り、深々と頭を下げた。
日本有数の企業グループを率いる男が。
何の迷いもなく、俺たち高校生へ頭を下げたのだ。
その姿を見た神白さんも、慌てて隣へ並び、同じように深く頭を下げる。
「皆さん……。」
「本当にありがとうございました。」
「あ……。」
黄瀬が思わず声を漏らした。
「え……?」
「あ、あの……。」
あまりにも深いお辞儀に、その場にいた全員が戸惑う。
誰一人として、「どうぞ頭を上げてください」という言葉さえすぐには出てこなかった。
俺は慌てて一歩前へ出る。
「頭を上げてください。」
「僕たちは、神白さんを助けたかっただけです。」
宗一郎さんはゆっくりと顔を上げる。
俺は真っ直ぐ宗一郎さんを見つめた。
「これから先も。」
「神白さんが困っていたら、僕は全力で助けます。」
「それが、僕の答えです。」
宗一郎さんは、どこか神白さんに似た優しく穏やかな笑みを浮かべた。
その時だった。
「あの。」
母さんが一歩前へ出る。
「はい?」
宗一郎さんが視線を向ける。
「主人が亡くなってから男手がなくて。」
「朝陽には、いつも妹の面倒まで見てもらってるんです。」
「だから、こんなに立派なお友達ができて、本当に嬉しくて。」
俺は嫌な予感しかしなかった。
「……母さん。」
「それでですね。」
「神白さん、うちに遊びに来る約束をしてくれたんです。」
「もしよければ。」
「お父さんも一緒に夕飯でもどうです?」
一瞬。
その場の空気が止まる。
「「「…………え?」」」
黄瀬が固まる。
緋乃が目を丸くする。
青嶌さんは口元を隠し笑いをこらえる。
(母さん……。)
(相手は神白グループの会長だぞ……。)
ところが。
宗一郎さんは一瞬だけ目を丸くした後――
ふっと笑った。
「ふふっ。」
「そのようなお誘いを受けたのは、何年ぶりでしょうか。」
運転手も思わず目を見開く。
神白さんはさらに驚いた表情を浮かべる。
「お、お父様……?」
宗一郎さんは朝陽の母へ向き直り、穏やかに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「ぜひ、お邪魔させていただきたい。」
その返事に、一番嬉しそうな顔をしたのは母さんだった。
「あら、本当ですか!」
「じゃあ、腕によりをかけて作らないと!」
宗一郎さんは柔らかく笑う。
「今から楽しみにしております。」
最後に宗一郎さんが静かに俺を呼ぶ。
「黒鉄朝陽くん」
「はい。」
「君の言葉は確かに受け取った。」
宗一郎さんは真っ直ぐ俺を見る。
「引き続き伊吹を、よろしく頼む。」
「……はい。」
短く返事をする。
それだけで十分だった。
宗一郎さんは満足そうに頷く。
それからしばらくして、それぞれの迎えが到着した。
黄瀬は迎えに来た姉に耳を引っ張られながら連れて行かれ、
「痛い痛い! 姉ちゃん、みんな見てるって!」
という情けない悲鳴を最後まで響かせていた。
緋乃も父親に頭を小突かれながら苦笑いを浮かべ、青嶌さんも源吾さんと短く言葉を交わしたあと、俺たちへ一礼してその場を後にした。
神白さんも車へ乗り込む直前、何度もこちらを振り返り、小さく手を振ってくれた。
俺も笑って手を振り返す。
やがて黒塗りのセダンは静かに走り去り、その姿は見えなくなった。
気付けば、現場の騒がしさも次第に落ち着きを取り戻していく。
「朝陽。」
母さんが優しく声を掛けた。
「私たちも帰ろう。」
「うん。」
母さんとゆっくりと歩き出す。
事件は終わった。
身体中が痛くて、足取りも重い。
それでも、不思議と心だけは軽かった。
守りたかった人が笑っている。
その光景だけで、今日戦った意味は十分だった。
夕焼けに染まる空を見上げながら、俺たちは家路についた。




