17
「くっ……。」
鷲尾は悔しそうに床を叩く。
「……参った。」
「降参だ。」
その言葉を聞いても、青嶌さんはすぐには力を緩めない。
相手の目を見る。
呼吸を見る。
指先の動きまで確認する。
完全に戦意を失ったことを確認してから、ようやくゆっくりと膝を離した。
立ち上がると、制服についた埃を軽く払う。
「これで終わりです。」
静かな一言だった。
その姿に、黄瀬は思わず目を丸くする。
「すげぇ……。」
「完全に押さえ込んだ。」
その時だった。
ドゴッ!!
鈍い衝撃音が店内へ響く。
「!」
全員の視線が一斉に音の方へ向く。
そこでは――。
緋乃と鷹取の戦いが、なおも続いていた。
「はぁっ!」
緋乃は一気に床を蹴った。
一直線に踏み込み、一瞬で鷹取との距離を詰める。
狙いは懐。
パンチが最も生きる間合いだった。
だが――。
「甘いですね。」
鷹取は表情一つ変えない。
踏み込んでくる緋乃へ向け、素早く左前足を突き出した。
腹を狙った鋭い前蹴り。
「くっ!」
緋乃は咄嗟に身体を引き、直撃は避けたものの、勢いを殺され一歩後退する。
その隙を鷹取は見逃さない。
「まだです。」
間髪入れず、右足が地面を薙ぐように振り抜かれる。
バシィッ!!
鋭いローキックが緋乃の左前足を打ち抜いた。
「っ……!」
鈍い衝撃が脚を突き抜ける。
思わず歯を食いしばる緋乃。
前足は何度も蹴られたことで赤く腫れ上がり、熱を持っていた。
踏み込むたびに痛みが走る。
それでも、緋乃は拳を下ろさない。
鷹取は静かに眼鏡を押し上げた。
「パンチしかない人間は――。」
淡々と告げる。
「距離を潰せばいいだけです。」
鷹取は乱れた呼吸一つ見せず、静かに構えを続ける。
「ここはリングではありません。」
眼鏡を押し上げる。
「ですから、徹底的に弱点を突かせてもらいます。」
その言葉と同時に、わずかに距離を取り直す。
緋乃は前足を軽く引きずるようにして構え直した。
「……くそ。」
「近づけねぇ。」
何度踏み込んでも、そのたびに前蹴りで勢いを止められ、ローキックで足を削られる。
拳を届かせる距離へ、あと一歩が遠い。
俺はこれまでの流れで分かったことがある。
(十中八九、あいつはキックボクシング……。)
ローキックやミドルキックが届く間合いは、ボクシングより一歩、いや二歩遠い。
その距離を鷹取は完璧に支配している。
緋乃が最も力を発揮できる懐へ入る前に、足を止められてしまう。
(このままじゃ……。)
(緋乃が圧倒的に不利だ。)
それでも緋乃は足を止めない。
「まだ終わらねぇ!」
緋乃は重心を極限まで低く落とした。
腫れ上がった前足の痛みも構わず、地面を蹴る。
一直線。
今度こそ懐へ潜り込む。
鷹取は小さくため息を吐いた。
「……これだから馬鹿は。」
その瞬間、身体をわずかに後ろへ反らす。
同時に右膝を鋭く跳ね上げた。
狙いは緋乃の顔面。
「っ!」
だが緋乃は怯まない。
顔を背けることも避けることもせず、額を前へ突き出した。
ゴッ!!
鈍い音が響く。
膝が額を捉え、緋乃の視界が一瞬揺らぐ。
額から一筋の血が流れ落ちた。
それでも――止まらない。
「もらったぁ!!」
膝を受けたそのまま、右肩を大きく振りかぶる。
拳が弧を描きながら振り下ろされる。
右のオーバーハンドフック。
「……!」
初めて鷹取の表情に焦りが走った。
(届く――。)
そう判断した次の瞬間だった。
鷹取は素早く両手を伸ばし、振り抜こうとする緋乃の首を掴む。
「しまっ……!」
そのまま頭を引き寄せる。
「あなたは一直線すぎる。」
至近距離から容赦なく膝を突き上げた。
ドゴッ!!
膝が緋乃の腹へ深々とめり込む。
「がっ……!」
緋乃の身体がくの字に折れ、その場で動きが止まった。
鷹取はゆっくりと構えを解き、小さく息を吐いた。
「……そろそろ終わりにしましょうか。」
緋乃は腹を押さえたまま、口の中に溜まった血を床へ吐き捨てる。
「ペッ……。」
赤い雫が床へ落ちた。
その直後だった。
緋乃は口元をゆっくりと吊り上げる。
「……。」
「フッ。」
ニヤリと笑う。
その笑みに、鷹取は眉をひそめた。
「何がおかしい。」
緋乃は拳を構え直しながら答える。
「やっと見えた。」
「……?」
「お前の癖だ。」
店内が静まり返る。
「前蹴りを出す時は、軸足のかかとが少し浮く。」
「ローキックの時は、軸足を回し過ぎる。」
「ミドルキックは、踏み込みが大きくなって、一瞬だけ隙ができる。」
鷹取の表情から笑みが消えた。
緋乃は口元を拭いながら続ける。
「つまり、お前は――。」
「軸足を完全にはコントロールできてねぇな。」
「無意識に癖が出てるんだ。」
鷹取は何も答えない。
その沈黙が、図星であることを物語っていた。
緋乃はふっと笑う。
「三流もいいところだ。」




