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屋上から教室へ戻る。
ちょうど一時間目が始まる少し前だった。
ガラガラッ。
教室の扉を開けた瞬間――
「うわっ!」
黄瀬の大きな声が教室中に響いた。
「朝陽! その顔どうしたんだよ!」
教室中の視線が一斉に俺へ集まる。
「え?」
「ほんとだ……。」
「傷だらけじゃん。」
あちこちから小さなどよめきが起こった。
「いや、ちょっと転んで。」
「そんな派手に転ぶ奴いるか!」
黄瀬が勢いよく立ち上がる。
「坂道を自転車で転げ落ちても、そんな顔にはならねぇぞ!」
「お前、俺を何だと思ってる。」
「人間。」
「知ってる。」
思わずツッコミを入れる。
すると教室に笑いが広がった。
「朝から漫才始まった。」
「いつもの二人だ。」
そんな声まで聞こえてくる。
だが。
一人だけ笑っていない人がいた。
神白さんだった。
彼女は席を立つと、ゆっくり俺の前まで歩いてくる。
「黒鉄くん……。」
心配そうな瞳が俺の顔を見つめる。
「その怪我……大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。」
「本当に?」
「うん。」
笑って答える。
しかし神白さんの表情は晴れない。
「でも……。」
言葉を探すように俺の頬を見る。
「すごく痛そうです。」
「平気平気。」
「昨日ちょっと転んだだけだから。」
その言葉に黄瀬がすぐ反応した。
「だからその転び方教えろって!」
「教えたらやってくれる?」
「嫌だよぉ!」
再び笑いが起こる。
神白さんも小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「黒鉄くん。」
「はい?」
「もし……。」
少しだけ言い淀む。
「何か困っていることがあったら、私たちを頼ってください。」
優しい声だった。
その一言に胸が少しだけ締め付けられる。
(頼られなきゃいけないのは、俺の方なんだけどな。)
心の中だけで苦笑する。
「ありがとう。」
それしか言えなかった。
その時だった。
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが教室に鳴り響く。
「はい、席につけー。」
北条先生が教室へ入ってくる。
神白さんは小さく会釈すると、自分の席へ戻っていった。
授業が始まる。
黒板へ向かう先生の声を聞きながら、俺はふと窓の外を見る。
(もっと強くならないと。)
男の拳。
宗一郎さんの言葉。
そして今、心配そうに俺を見つめていた神白さんの表情。
その全てが頭の中を巡っていた。
俺は机の下で、誰にも気付かれないよう拳を強く握り締めた。
放課後。
俺たちは約束通り図書室へ集まっていた。
「じゃあ今日は英語からね。」
青嶌さんが教科書を開く。
「えぇー。」
黄瀬が早速机に突っ伏した。
「土曜日数学やったじゃん。」
「今日は英語。」
「明日は?」
「まだ決めてない。」
「逃げ道なしじゃん……。」
「頑張れ。」
俺が肩を叩くと、
「お前は味方じゃなかったのか!」
黄瀬が大げさに叫び、図書室のあちこちから笑い声が漏れる。
そんな時だった。
コンコン。
図書室の扉が静かにノックされた。
「失礼します。」
全員が扉へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。
長い黒髪を揺らしながら、小さく微笑む。
「小紫さん?」
神白さんが驚いたように目を瞬かせる。
小紫は軽く頭を下げた。
「突然ごめんなさい。」
「勉強会をしているって聞いて……。」
「もしご迷惑でなければ、私もご一緒してもいいかしら?」
青嶌さんが神白さんを見る。
神白さんも優しく微笑んだ。
「もちろんです。」
「ありがとうございます。」
小紫は嬉しそうに笑うと、中へ入ってくる。
そして――
空いている席を見渡し、そのまま俺の隣へ腰を下ろした。
「よろしくね、黒鉄くん。」
「……うん、よろしく。」
特に気にも留めず返事をすると、小紫は少しだけ身を寄せてきた。
「英語、少し苦手なの。」
「分からないところがあったら教えてくれる?」
「俺で分かることなら。」
「ありがとう。」
ふわりと甘い香りが漂う。
近い。
(ちょっと近くないか……?)
そう思った時だった。
向かい側から、じっと視線を感じた。
神白さんだ。
「…………。」
何も言わない。
けれど、さっきまで穏やかだった表情が、ほんの少しだけ固くなっている。
「神白さん?」
「えっ?」
呼びかけると、慌てて笑顔を作る。
「い、いえ。」
「何でもありません。」
そう言って教科書へ目を落とした。
だが、ページは一向に進んでいない。
その様子を見ていた黄瀬が、ニヤリと笑う。
(あー……。)
(これ、面白いことになってきた。)
小紫はそんな空気など気付いていないような顔で、また俺へ顔を近付ける。
「黒鉄くん。」
「この問題なんだけど……。」
ノートを見せるふりをして、肩が軽く触れる。
「ここ、どういう意味?」
「えっと……。」
説明を始めようとした、その時。
「黒鉄くん。」
神白さんが珍しく少しだけ強い口調で俺を呼んだ。
「はい?」
「こちらの問題……教えていただけますか?」
「うん、もちろん。」
俺が席を立とうとすると、小紫がくすりと笑う。
「うふふ。」
「黒鉄くんって、人気者なのね。」
「いや、そんなことは……。」
俺は苦笑するしかなかった。
その様子を見ながら、小紫は誰にも気付かれないよう、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
(まずは、このくらいでいいわ。)
その笑みの意味を知る者は、この場には誰一人いなかった。ただ一人、小紫本人を除いて。




