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家へ着いた頃には、空はすっかり夕焼け色から藍色へと変わり始めていた。
「ただいま。」
玄関の扉を開ける。
「おかえりー。」
リビングから母さんの声が聞こえてくる。
その声に続いて、小走りの足音が近付いてきた。
「お兄ちゃん、おかえ――」
夕奈の言葉が止まる。
「……え?」
目を見開いたまま、俺の顔を見つめていた。
「お兄ちゃん、その顔どうしたの!?」
その声を聞いて、キッチンにいた母さんも慌てて玄関へやって来る。
「朝陽!」
俺の顔を見るなり、表情が変わった。
「ちょっと、その怪我どうしたの?」
「いや、大したことないよ。」
できるだけ笑って答える。
「ちょっと転んだだけ。」
「転んだだけでそんな傷になるわけないでしょう。」
母さんは呆れたようにため息をつく。
「また喧嘩したの?」
「してないって。」
「じゃあ何があったの?」
その問いに、一瞬言葉が詰まる。
まさか本当のことを話すわけにもいかない。
「自転車避けようとして転んだ。」
苦し紛れにそう答える。
母さんはじっと俺の目を見つめた。
嘘だと気付いている。
でも、それ以上は聞いてこなかった。
「……そう。」
「病院は?」
「大丈夫。」
「本当に?」
「うん。」
母さんは小さく息を吐く。
「無理だけはしないこと。」
「何かあったら、一人で抱え込まないでちゃんと話しなさい。」
「分かった。」
その横で、夕奈はまだ心配そうに俺を見ていた。
「痛いんでしょ?」
「うん、ちょっとね。」
「薬持ってくる!」
そう言うと、夕奈はリビングへ駆けていく。
「夕奈、大丈夫だから。」
「だーめ。」
振り返りもせず返事だけが返ってきた。
数十秒後。
救急箱を両手で抱えて戻ってくる。
「はい。」
「ありがとう。」
頭を軽く撫でると、夕奈は少し照れくさそうに笑った。
「……無茶しないでよ。」
その一言が、胸にじんと響く。
「ごめんな。」
「俺、ちょっと部屋で休む。」
「夕飯できたら呼ぶから。」
母さんの声に手を挙げて応え、二階への階段を上る。
一段登るたび、全身に鈍い痛みが走る。
部屋へ入り、制服を脱ぐ。
鏡の前に立つと、改めて自分の姿が目に映った。
頬には大きな痣。
口元は切れ、腹には膝蹴りを受けた跡が残っている。
「……いてぇ。」
ベッドへ腰を下ろす。
自然と今日の戦いが頭をよぎった。
自衛隊格闘術。
あの無駄のない構え。
徹底的に支配された間合い。
そして男が言った言葉。
『お前を試せと言われている。』
「なんで俺なんだ……。」
神白さんじゃない。
俺だった。
どうして俺の実力を知る必要があった。
宗一郎さんの言葉も思い出す。
『伊吹には、卒業後に決まっている話がある。』
あの言葉は、一体何を意味していたんだろう。
神白さんは何に巻き込まれている。
そして、その中で俺はどんな役割を求められている。
何も分からない。
分からないからこそ、一つだけはっきりしたことがある。
今日の勝利は、決して実力差じゃない。
紙一重だった。
あと少し判断が遅れていたら、倒れていたのは俺だった。
「……このままじゃ駄目だ。」
小さく呟く。
「もっと強くならないと。」
翌週。
体中に鈍い痛みを残したまま、俺は教室へ入った。
椅子に腰を下ろした瞬間、顔をしかめる。
昨日受けた膝蹴りの痛みがまだ残っていた。
「黒鉄くん。」
後ろから静かな声が聞こえる。
振り向くと、青嶌さんが立っていた。
その表情から笑顔は消えている。
俺の頬や口元の傷を見て、小さく息をのんだ。
「……その怪我。」
「少し話せますか?」
俺は黙って頷いた。
ホームルームが始まる前。
俺たちは誰もいない屋上へ出た。
朝の風が制服を揺らす。
青嶌さんはフェンスにもたれながら、静かに口を開いた。
「あの時の違和感と関係が?」
「……うん。」
俺は土曜日にあった出来事を、最初から最後まで話した。
神白家を出たあと、誰かにつけられていたこと。
路地裏で男と対峙したこと。
男は神白さんではなく、自分を試すために来たと言っていたこと。
そして、自衛隊格闘術を使う訓練された相手だったこと。
最後まで黙って聞いていた青嶌さんは、小さく目を閉じた。
朝の風だけが二人の間を通り抜ける。
「神白さん……。」
俺は空を見上げた。
「一体、何に巻き込まれてるんだろう。」
その問いに答えられる人はいない。
「でも、一つだけ分かった。」
俺は拳を握る。
昨日の戦いを思い出す。
自衛隊格闘術。
支配された間合い。
紙一重だった勝利。
「あの相手に勝てたのは、運が良かっただけだ。」
「次も勝てる保証なんてない。」
「もし、神白さんがあの場にいたら……。」
最後まで言葉が続かなかった。
青嶌さんは静かに俺を見る。
「俺。」
ゆっくりと息を吸う。
「もっと強くならないといけない。」
「今のままじゃ、神白さんを守れない。」
その言葉に、青嶌さんは少しだけ目を細めた。
「……そうですね。」
短く答える。
「でも、一人で全部背負わないで下さい。」
「伊吹様を守るのは、黒鉄くんだけじゃない。」
「私もいる。」
その一言は、力強く、それでいてどこか優しかった。
俺は少しだけ笑う。
「そうだったね。」
すると青嶌さんも笑みを浮かべた。
「よし。」
「そろそろ戻ろう。」
「みんなに怪しまれちゃう。」




