9
男はゆっくりと立ち上がった。
口元の血を親指で拭い、その赤を一瞥する。
「久しぶりだ。」
小さく笑う。
「ここまで入れられたのは。」
その笑みが消えた。
同時に、空気が変わる。
さっきまでの男は"試していた"。
だが今、目の前に立つ男は違う。
(……来る。)
背筋を冷たいものが走った。
男は静かに構えを取る。
右足を半歩引く。
重心をさらに低く落とす。
肩の力が抜ける。
だが、その姿勢から漂う圧力だけが膨れ上がっていた。
「予定変更だ。」
男が静かに言う。
「お前を試すんじゃない。」
「倒す。」
その一言が終わるより早く、男が地面を蹴った。
(速いッ!)
視界から姿が消えたわけじゃない。
見えている。
なのに、追いつけない。
次の瞬間には俺の左側へ回り込んでいた。
「っ!」
反射的に左腕を上げ防御の体勢をとる。
男は防御した腕を上から叩く。
受けた衝撃で腕の隙間に空間が生じた。
その隙間に男の拳が食い込んでくる。
「ぐっ!」
息が漏れた瞬間には、下段から鋭い蹴りが太腿を打ち抜く。
体勢が沈む。
そこへ追い打ちをかけるように膝が顔へ迫る。
「くっ……!」
かろうじて腕で受けるが、そのまま押し切られ顔へと吸い込まれた。
「がっ…。」
衝撃は骨まで響き、身体は数歩後ろへ後退させられる。
(なんだ、この連携……!)
一撃一撃が途切れない。
打撃が終わる頃には、次の攻撃が始まっている。
まるで一つの流れの中に組み込まれているようだった。
(速すぎる……!)
俺はたまらず距離を取る。
だが、男はすぐには追ってこない。
一歩。
また一歩。
俺が下がれば、その分だけ前へ出る。
決して詰めすぎない。
「終わりだ。」
その瞬間、祖父の言葉が脳裏によみがえった。
『真正面から来る相手は怖くない。』
『怖いのは、間合いを支配する相手だ。』
(間合い……?)
俺はようやく気付く。
男は無闇に攻めているんじゃない。
俺が一番戦いにくい距離を、ずっと保っている。
踏み込みすぎず。
離れすぎず。
拳も、蹴りも。
最も威力が乗る位置だけを、一切崩さない。
(そういうことか……。)
ようやく分かった。
俺が一番戦いにくい距離を、ずっと維持しているんだ。
踏み込めば一歩下がる。
下がれば一歩詰める。
拳も蹴りも、常に最も威力が乗る間合いで打ち込んでくる。
(このままじゃ勝てない。)
俺は呼吸を整える。
痛みできしむ身体を無理やり押し殺した。
(自分の間合いへ引きずり込むんだ…!)
男は静かに速く、踏み込んでくる。
右足。
左足。
一定の歩幅。
一定の呼吸。
隙がない。
だからこそ――。
(そこだ。)
俺は自分から踏み込まない。
逆に半歩だけ下がった。
男の足が一歩伸びる。
その瞬間。
俺は地面を蹴った。
「っ!」
男の眉がわずかに動く。
今まで保っていた距離が、一瞬だけ狂った。
そこへ体ごと飛び込む。
拳でもない。
蹴りでもない。
肩から男の胸へぶつかる。
「なっ……!」
男の重心がわずかに後ろへ浮いた。
その一瞬を逃さない。
【黒鉄流[柔の型]柳】
「なっ……!」
その驚きの声を聞いた瞬間、俺は迷わなかった。
腰を落とし、力を全身に込める。
ほんの一瞬崩れた体勢を利用してグッと両腕で男の重心を前方に引き出す。
体をコマのように鋭く反転さた。
右足は男の両足の進路へ一本の棒のように差し出す。
「しまっ――!」
次の瞬間。
男の体が大きく宙を舞い。
ドォンッ!!と背中から硬いアスファルトへ激しく叩きつけられた。
「がっ……!」
肺の空気が一気に吐き出される。
男は苦しそうに身をよじる。
立ち上がろうと腕に力を込める。
だが――。
「ぐっ……!」
右肘が震え、体を支えられない。
もう一度。
膝を立てようとする。
それでも腰が浮かない。
男は諦めたように仰向けになり、天を見上げる。
「……まさか。」
荒い呼吸の合間に、小さく笑う。
「高校生に……。」
俺は構えを解かない。
祖父から教わった。
倒れた相手が完全に戦意を失うまで、構えを解くな。
男はゆっくりと両手を上げた。
「降参だ。」
「これ以上は……立てん。」
その言葉を聞いて、ようやく俺は拳を下ろした。
全身から一気に力が抜ける。
「はぁ……はぁ……。」
息が苦しい。
腕も脚も震えている。
勝った。
だが、紙一重だった。
男は苦笑しながら俺を見上げる。
「黒鉄流……。」
「噂以上だ。」
「いい技を受けた。」
その言葉を最後に、男は静かに目を閉じた。




