5
応接室へ戻ると、扉が開く音に真っ先に反応したのは黄瀬だった。
「おっ、遅かったな!」
「トイレで寝てたのかと思ったぞ!」
「寝るか。」
俺は苦笑しながら席へ戻る。
「いやー、全然戻ってこないからさ。」
「神白家のトイレってそんな居心地いいの?」
「知らねぇよ。」
「迷子になったとか?」
青嶌さんがくすっと笑う。
「この家広いもんね。」
「黒鉄くんでも迷うことあるんだ。」
「いや、迷ってないよ。」
「じゃあ何してたの?」
神白さんが不思議そうに首を傾げる。
一瞬だけ宗一郎との会話が頭をよぎる。
「ちょっと近衛さんに呼び止められて。」
なるべく何でもないように答える。
「へぇ。」
黄瀬は特に気にする様子もなく頷いた。
「じゃあサボってたわけじゃないんだな。」
「だから違うって。」
「よし、疑いは晴れた!」
「最初から疑うなよ。」
思わずツッコむ。
「さて。」
青嶌さんがパン、と手を叩く。
「あと少し頑張ろう!」
「えぇぇぇ……。」
黄瀬が机に突っ伏す。
「糖分補給したじゃん。」
「もう使い切った。」
「早いよ。」
部屋に笑いが広がる。
その後も勉強会は和やかに続き、気づけば窓の外は夕方の色へと変わっていた。
「今日はここまでにしようか。」
青嶌さんが教科書を閉じる。
「黄瀬くん。」
「うぃ……。」
「最初よりはかなり分かるようになってきたね。」
「マジ?」
「うん。」
「でも、このままだと中間テストはちょっと心配かな。」
黄瀬の笑顔が固まる。
「ということで。」
青嶌さんはにっこり笑った。
「放課後も少しずつ勉強会しよう。」
「えぇぇぇぇぇっ!?」
黄瀬が悲鳴を上げる。
「マジで!?」
「マジ。」
「俺の放課後がぁぁ!」
「大丈夫。」
「一時間だけだから。」
「一時間もあるじゃん!」
「頑張ろうね。」
青嶌さんの笑顔は崩れない。
「鬼だ……。」
黄瀬が肩を落とす。
その様子に、神白さんはくすっと笑った。
「私も、お手伝いします。」
「神白さんまで……。」
黄瀬は天井を見上げ、大げさにため息をついた。
「俺の学生生活がぁ……。」
「自業自得だよ。」
俺が肩を叩くと、部屋は最後まで笑い声に包まれた。
近衛さんと神白さんに見送られ、俺たちは神白家を後にした。
駅まで歩く途中で青嶌さん、黄瀬とは別れ、帰り道は一人になる。
夕暮れの住宅街。
オレンジ色の光が道路を照らしていた。
その時だった。
(……いる。)
今度は違う。
昼間に感じたような曖昧な違和感じゃない。
確実に。
誰かが俺を追っている。
歩幅を少し変える。
後ろの気配も、わずかに変わる。
(やっぱりか。)
俺は速度を上げる。
住宅街を抜け、人気の少ない細い路地へ入る。
角を一つ。
もう一つ。
そして――
急に立ち止まる。
静寂。
俺は振り返らずに口を開いた。
「……いつまで付いてくるつもりだ。」
返事はない。
「隠れてても分かってる。」
ゆっくり振り返る。
「出て来いよ。」
数秒の沈黙。
その直後。
路地の奥から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
年齢は三十代前半ほど。
黒いジャケットを羽織り、色落ちしたジーンズを履いている。
一見すれば、どこにでもいそうな男だった。
だが、その立ち姿だけは違う。
無駄な力みがなく、重心がまったくぶれない。
歩幅は一定。
足音すらほとんど立てない。
鍛え上げられた体が服の上からでも分かる。
そして何より──
獲物を見定めるような鋭い目だけが、不気味なほど静かだった。
男は口元だけをわずかに歪める。
「ほぉ。」
「ちゃんと気付いていたか。」
その笑い方だけで分かった。
──こいつは、今まで相手にしてきた不良とは違う。




