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「失礼します。」
「入れ。」
中から落ち着いた声が返ってくる。
扉を開けると、広い書斎のような部屋だった。
壁一面の本棚。
大きな机。
そして、その奥に神白宗一郎が座っている。
「座りなさい。」
「はい。」
俺は軽く頭を下げ、向かいの椅子へ腰を下ろした。
一瞬、静かな時間が流れる。
気まずいというより、単に"間"があるだけの沈黙だった。
「勉強会はどうだった。」
宗一郎が先に口を開いた。
「普通にやってました。」
「思ったよりちゃんと勉強してます。」
「そうか。」
小さく頷く。
それだけで会話が終わりそうな空気になる。
だが宗一郎は、少しだけ視線を落として続けた。
「伊吹はどうだった。」
「……どう、ですか。」
「楽しそうにしていたか。」
その言葉に、少し意外さを感じる。
もっと堅い話をされると思っていた。
少し考えてから答える。
「はい。」
「最初は少し遠慮してる感じもありましたけど、今は黄瀬とも青嶌さんとも普通に話してます。」
「この前も、みんなでショッピングモールへ行ったんです。」
「あの時も、よく笑ってました。」
自然と、モールで見た伊吹の笑顔が頭に浮かぶ。
「今日も勉強会を楽しみにしてたみたいですし。」
「学校では、ちゃんと楽しめてると思います。」
宗一郎は何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐く。
「そうか……。」
その一言には、どこか安堵が滲んでいた。
「最近、あの子は家では学校の話をあまりしなくてな。」
「昔からそういう子なんだ。」
宗一郎は苦笑するように目を細めた。
「だから、どんな顔で学校へ通っているのか気になっていた。」
少しだけ間が空く。
「昔は……身の安全を考え、あの子に不自由な思いをさせてきた。」
「普通の子なら当たり前にできることも、我慢させた。」
静かな声だった。
責めるでもなく、言い訳をするでもない。
ただ事実を話しているようだった。
「だから今くらいは。」
窓の外へ視線を向ける。
「普通の学生として、笑って過ごしてほしい。」
「それが、親としての願いだ。」
俺は何も言えなかった。
さっきまで"神白グループの総帥"だと思っていた人が、今はただ娘を心配する父親にしか見えなかった。
宗一郎は再び俺を見る。
「そして、もう一つ。」
少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「伊吹には……卒業後の進む道が、ある程度決まっていてな。」
その言葉だけが、妙に胸へ残る。
(進む道……?)
何のことだ。
就職の話か。
それとも別の何かか。
聞こうとしたが、宗一郎はそれ以上話を続けなかった。
「だからこそ。」
「少なくとも卒業するまでは。」
「今のような日常を送らせてやりたい。」
「君には、その力を貸してほしい。」
その言葉に、俺は自然と頷いていた。
「俺にできることなら。」
宗一郎は、初めて穏やかに笑った。
「ありがとう。」
短い一言だった。
だが、それだけで十分だった。
俺は立ち上がる。
「今日はありがとう。」
「いえ。」
扉へ向かう。
その時だった。
「黒鉄くん。」
振り返る。
宗一郎は静かにこちらを見ていた。
「あの子は……ちゃんと笑っていたか。」
さっきよりも少し弱い声だった。
確認するように。
俺は迷わず答える。
「はい。」
「普通に笑ってました。」
「それに、すごく楽しそうでした。」
宗一郎は目を閉じ、小さく頷く。
「そうか。」
それだけだった。
俺は一礼し、部屋を後にした。
扉が静かに閉まる。
長い廊下を歩きながら、さっきの会話を思い返す。
(進む道、か……。)
結局、その意味は分からなかった。
でも、一つだけ分かったことがある。
神白宗一郎は、神白グループの総帥である前に――
娘の笑顔を誰よりも願う、一人の父親だった。
それでも。
"卒業後の進む道"という言葉だけは、妙に胸の奥へ引っ掛かったままだった。




