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土曜日の朝。
目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。
休日にしては珍しく寝坊もせず、ベッドから起き上がる。
顔を洗い、着替えを済ませてリビングへ向かうと、キッチンから味噌汁のいい匂いが漂ってきた。
「おはよう。」
「あら、おはよう。」
振り返った母さんは、俺を見るなり少し驚いたような顔をした。
「今日は早いのね。」
「うん。」
席に座りながら答える。
「今日は神白さんの家で勉強会なんだ。」
その瞬間だった。
母さんの表情が、ぱあっと明るくなる。
「まぁ〜!」
「神白さんのお家に?」
「うん。」
「みんなで勉強会。」
俺は何気なく答えたつもりだった。
だが母さんは違った。
「そう……。」
「ついにお家に招待される関係になったのねぇ。」
「……違うから。」
「ふふふ。」
全然聞いてない。
以前の青嶌源吾さんの一件以来母さんの勘違いはまったく解けていなかった。
いや。
むしろ悪化している気がする。
「今度は神白さんも連れていらっしゃい。」
「ちゃんとお礼しなきゃ。」
「だから違うって。」
「はいはい。」
絶対分かってない。
俺は小さくため息をつきながら朝食を食べ終えた。
「じゃ、行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
母さんは終始にこにこしたまま俺を見送っていた。
……帰ってきたら、また変なことを聞かれそうだ。
家を出ると、休日の住宅街は平日より静かだった。
空は雲ひとつない快晴。
風も心地いい。
神白家までは電車で移動する。
駅へ向かいながら、ふと足が止まる。
(……。)
まただ。
ここ数日、何度も感じている妙な違和感。
誰かに見られているような。
そうでもないような。
振り返ってみる。
通学中の学生。
犬の散歩をする夫婦。
買い物袋を提げた女性。
どこにでもある休日の風景だった。
(気のせい……か。)
そう思い直し、再び歩き始める。
だが胸の奥に引っ掛かった小さな違和感だけは、消えることがなかった。
神白家。
駅から少し離れた高級住宅街。
その一角に、神白家の屋敷は建っていた。
「でっかいなぁ……。」
思わず声が漏れる。
高い門。
広い庭園。
手入れの行き届いた植木。
まるで映画やドラマに出てくる豪邸そのものだった。
門の前に立っているだけで場違いな気分になる。
すると門が静かに開き、一人の男性が歩いてきた。
黒いスーツを着こなし、姿勢は一切乱れていない。
「黒鉄様でいらっしゃいますね。」
深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。」
「私は神白家執事の近衛と申します。」
「どうぞ中へ。」
「あ、よろしくお願いします。」
案内されるまま屋敷へ入る。
玄関だけでも俺の家より広いんじゃないかと思うほどだった。
磨き上げられた大理石の床。
天井から吊り下がる大きなシャンデリア。
壁には見たこともない絵画や壺が飾られている。
歩くだけで緊張する。
(家っていうより……。)
(ホテルだろ、これ。)
そんなことを考えていると。
「黒鉄くん。」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、青嶌さんがソファに座って本を読んでいた。
「青嶌さん。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
「少し早く着いてしまったので待たせてもらっていました。」
さすが青嶌さん。
時間ぴったりどころか少し早く来るあたりがらしい。
その時だった。
玄関の向こうから大きな声が響く。
「うおぉぉぉ!!」
「すげぇぇぇ!!」
「ここマジで家なのか!?」
勢いよく入ってきた黄瀬が、目を輝かせながら辺りを見回していた。
「映画でしか見たことねぇ!」
「シャンデリアある!」
「床ピカピカ!」
「俺、滑って転びそう!」
「落ち着け。」
思わずツッコむ。
「いや無理だって!」
「テンション上がるだろこれ!」
黄瀬は子どものようにはしゃぎながら屋敷を見渡していた。
その様子を見ていた青嶌さんは、小さく笑う。
「黄瀬くんらしいね。」
そんな賑やかな空気の中、二階の階段からゆっくりと神白伊吹が姿を現した──。
近衛さんに案内された先は、広々とした応接室だった。
中央には大きなテーブル。
人数分の椅子が並べられ、すでに教科書やノートまで用意されている。
「こちらをご自由にお使いください。」
近衛は一礼すると静かに部屋を後にした。
「……すご。」
黄瀬が辺りを見回す。
「勉強する部屋まで豪華なのかよ。」
「落ち着かないな。」
俺も苦笑する。
神白さんは少し申し訳なさそうに笑った。
「普段使っている応接室なので……。」
「応接室で勉強って初めて聞いた。」
黄瀬が頭を掻く。
「じゃあ始めよう!」
青嶌さんが笑顔で教科書を開く。
「今日は数学からね!」
「うわぁ……。」
黄瀬が露骨に嫌そうな顔をする。
「俺、数学だけは無理。」
「まだ何もやってないじゃん。」
俺が呆れて言うと、
「数字がいっぱい並んでるだけで頭痛くなるんだって!」
「それは重症だね。」
青嶌さんがクスクス笑う。
「大丈夫大丈夫。」
「ちゃんと分かるように教えるから。」
そう言ってノートを黄瀬の前へ向ける。
「ここはね、この公式を使うだけ。」
「え?」
「ほら、ここ見て。」
「なるほど……。」
「で、ここをこうすると?」
「……あ!」
「できた!」
「ほらね。」
青嶌さんは嬉しそうに笑った。
「意外と簡単だったでしょ?」
「すげぇ!」
「青嶌先生!」
「先生じゃないよ。」
「でもありがとう。」
教室でもよく見るような、明るい笑顔だった。
その様子を見ていた神白さんも微笑む。
「青嶌さん、教えるのがお上手ですね。」
神白さんが感心したように言う。
「そう?」
青嶌さんは少し照れたように笑った。
「説明するのは昔から得意なんだ。」
「相手に伝わるように話すことが多くて。」
「へぇ。」
黄瀬が感心したように頷く。
「なんか先生向いてそうじゃん。」
「先生かぁ。」
青嶌さんは少し考えてから笑う。
「父の仕事を手伝うことがあるから、その影響かもしれないね。」
「仕事の手伝い?」
黄瀬が聞くと、
「あ、うん。」
「資料をまとめたり、人に説明したりすることがたまにあるんだ。」
「なるほど。」
以前、家の都合で勉強会ができないと言っていた。
「じゃあ俺も手伝えば頭良くなるかな!」
黄瀬が真顔で言う。
「それはならないかな。」
青嶌さんは即答した。
「ひどっ!」
部屋に笑い声が広がる。
その時だった。
コンコン。
「失礼いたします。」
近衛さんがワゴンを押して部屋へ入ってくる。
「お飲み物と、お菓子をご用意しました。」
紅茶。
コーヒー。
ジュース。
そして焼き菓子にケーキ。
「えぇぇぇ!!」
黄瀬が立ち上がる。
「勉強会でこんなの出るの!?」
「うちじゃ麦茶しか出ないぞ!」
「それ普通だから。」
俺は思わず笑う。
神白さんは少し照れたように微笑んだ。
「皆さんのお口に合えば嬉しいです。」
近衛さんが運んできたお菓子のおかげで、勉強会はすっかり休憩モードになっていた。
「これ美味っ!」
黄瀬はクッキーを頬張りながら目を輝かせる。
「こんなの毎日食べてるの?」
「そんなことはありませんよ。」
神白さんは苦笑した。
「今日だけ、近衛さんが少し張り切ってくださったみたいです。」
「少し……?」
俺はテーブルいっぱいに並ぶ焼き菓子を見る。
(これで少しなのか。)
神白家の"普通"は、やっぱりよく分からない。
その時だった。
「黒鉄さん。」
神白さんが少し遠慮がちに俺を呼ぶ。
見ると、小さなお皿を両手で持っていた。
「こちらも……召し上がっていただけませんか?」
皿の上には、小さなマドレーヌが乗っていた。
「これも近衛さんが?」
俺が何気なく聞くと、神白さんは一瞬だけ言葉に詰まる。
「えっと……。」
少しだけ目を泳がせ、
「……はい。」
小さく頷いた。
「じゃあ、いただきます。」
一口かじる。
ふわっと広がる優しい甘さ。
バターの香り。
どこか温かみのある味だった。
「……。」
思わずもう一口食べる。
「美味しい。」
自然と口からこぼれた。
「これ、すごく好きな味だ。」
その瞬間。
神白さんの肩が小さく震えた。
「本当ですか……?」
「うん。」
「お店のより、こういう優しい味の方が好きかも。」
照れ隠しでも何でもない。
思ったことを、そのまま口にしただけだった。
神白さんは嬉しそうに微笑む。
「よかった……。」
その声は、ほとんど独り言だった。
少し離れた場所でその様子を見ていた青嶌さんは、小さく笑う。
(ふふっ。)
(黒鉄くん、それきっと近衛さんが作ったんじゃないよ。)
もちろん朝陽は気付かない。
神白さんも、自分から言うつもりはない。
ただ──
朝陽が「美味しい」と言ってくれた。
その一言だけで十分だった。
神白さんは誰にも気付かれないよう、そっと胸の前で小さく手を握り締めた。
マドレーヌを食べ終えた頃には、部屋は再び賑やかな空気に包まれていた。
「よーし!」
黄瀬が勢いよく立ち上がる。
「糖分補給したし、あと一時間は頑張れる!」
「一時間しかもたないの?」
青嶌さんが呆れたように笑う。
「十分十分!」
「その前向きさだけは尊敬する。」
思わず苦笑する。
そんな他愛もないやり取りを聞きながら、俺は席を立った。
「ちょっとトイレ。」
「あ、いってらっしゃい。」
神白さんが小さく手を振る。
「逃げるなよー!」
黄瀬の野次を背中で聞き流しながら、俺は部屋を出た。
神白家の廊下は、相変わらず静かだった。
磨き上げられた床は足音を小さく反射し、大きな窓の外では風に揺れる木々が見える。
屋敷全体が、どこか時間の流れまでゆっくりに感じさせた。
(広いな……。)
何度見ても慣れない。
一人で歩いていると、自分が場違いな人間なんじゃないかと思えてくる。
用を済ませ、応接室へ戻ろうと廊下を歩いていると──
「黒鉄様。」
静かな声が背後から聞こえた。
振り返る。
そこには、近衛さんがいつものように背筋を伸ばして立っていた。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、近衛さんは一礼する。
「旦那様がお話ししたいことがあるそうです。」
「俺に?」
思わず聞き返す。
「はい。」
「黒鉄様、お一人でお越しください。」
……俺一人。
一瞬だけ胸の奥がざわつく。
「何か、ありましたか?」
そう聞いてみる。
だが近衛さんは、表情一つ変えずに答えた。
「申し訳ございません。」
「私からは、お答えできません。」
それ以上は何も語らない。
静かな廊下に、わずかな沈黙が流れる。
(……何の話だ?)
心当たりはない。
勉強会で何か失礼なことをした覚えもない。
それとも──
神白さんのことか。
考えても答えは出ない。
「分かりました。」
俺は小さく頷いた。
近衛さんは再び一礼すると、静かに歩き始める。
俺もその後を追った。
応接室とは反対方向。
さっきまで通らなかった廊下を進み、
さらに奥へ。
奥へ。
歩くたびに、人の気配が少なくなっていく。
やがて近衛さんは、一枚の重厚な扉の前で足を止めた。
磨き上げられた木製の扉。
神白家の中でも、一際重みを感じさせる部屋だった。
近衛さんは軽く扉をノックする。
「旦那様。」
「黒鉄様をお連れいたしました。」
一拍の静寂。
すると、扉の向こうから落ち着いた声が返ってきた。
「……入りなさい。」
近衛さんが静かに扉を開く。
「どうぞ。」
俺は一度だけ深呼吸をした。
そして、部屋の中へ足を踏み入れた──。




