12
翌朝。
いつも通り教室へ入ると、まだ教室には数人しか登校していなかった。
黄瀬の姿も、神白さんの姿もない。
窓際の自分の席へ荷物を置き、一息ついた、その時だった。
「黒鉄くん。」
聞き慣れた声に振り返る。
青嶌羽唯だった。
昨日までと変わらない制服姿。
だが、教室で見せる明るい笑顔ではない。
護衛としての、落ち着いた表情だった。
「少し、お時間をいただけますか。」
「うん。」
俺は小さく頷く。
二人で教室を出ると、そのまま階段を上り始めた。
向かった先は屋上だった。
重たい鉄扉を開く。
朝の風が頬を撫でた。
開放感のある空が広がる一方、屋上全体は高いフェンスで囲まれている。
事故防止のためだろう。
フェンスの上部は内側へ大きく反り返り、人が簡単に乗り越えられない造りになっていた。
街並みを見下ろせるその場所には、まだ誰の姿もない。
青嶌さんは周囲を確認すると、一枚の書類を差し出した。
「こちらが最終確認になります。」
受け取ると、それは神白家との雇用契約書だった。
「昨夜、父からお話は聞いています。」
「ですが、正式に契約する前に、もう一度だけ確認させてください。」
真っ直ぐ俺を見る。
「黒鉄朝陽さん。」
「あなたは、ご自身の意思で神白家の護衛を引き受けますか。」
俺は契約書へ目を落とす。
昨夜、何度も考えた。
母さんのこと。
夕奈のこと。
そして――神白さんの笑顔。
答えは決まっていた。
「はい。」
迷いなく答える。
青嶌さんは小さく頷いた。
「ありがとうございます。」
「では、仕事内容の説明を…」と付け加え、青嶌さんは淡々と説明を始めた。
「伊吹様は毎朝、神白会長――宗一郎様の送迎で登校されます。」
「そのため、登校時の護衛は必要ありません。」
「あなたにお願いしたいのは、学園内、そして下校時です。」
「学校では一人の生徒として過ごしながら、不審な人物や異変に気を配ること。」
「そして下校時は、伊吹様が無事にご自宅へ到着するまで見届けていただきます。」
「それが、あなたの主な任務です。」
青嶌さんは一度言葉を区切る。
「当然ですが、常に付き添う必要はありません。」
「伊吹様に護衛だと悟られず、これまで通り"友人"として接してください。」
「異変があった時だけ、護衛として動いていただければ結構です。」
一通り聞き終わり、俺は契約書へ署名を記入する。
ペンを置いたところで、前から気になっていたことを口にした。
「一つ、聞いてもいい?」
「何でしょう。」
「青嶌さんは……。」
「最初から護衛として、この学校へ来たの?」
一瞬だけ風が吹く。
青嶌さんはフェンスの向こうへ視線を向け、小さく息を吐いた。
「……はい。」
その答えは、あまりにもあっさりしていた。
「青嶌家は、代々神白家に仕える護衛の一族です。」
「祖父も、父も、そのまた祖父も。」
「私も物心ついた頃から、護衛になることを前提に育てられました。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「護身術や武術はもちろん、礼儀作法、危機管理、情報収集。」
「学校へ通いながらも、それが私の日常でした。」
「……責任と危険が隣り合わせなんだろ。」
俺は契約書を閉じながら言った。
「大変な仕事だね。」
青嶌さんは少しだけ空を見上げ、小さく笑った。
「そうですね、誇らしくもありますが…」
「……でも、昔の私は嫌いでした。」
「え?」
俺はとっさに聞き返した。
「護衛になるための訓練が。」
青嶌さんは懐かしむように目を細めた。
「幼い頃から、毎日訓練でした。」
「武術、体術、礼儀作法、危機管理……。」
「今思えば普通だったのでしょうけど、当時の私には、とても厳しく感じました。」
少しだけ苦笑する。
「ある日、訓練が嫌になって抜け出したことがあるんです。」
「庭園の隅で、一人泣いていました。」
「その時でした。」
青嶌さんの声が少しだけ柔らかくなる。
「伊吹様はお忘れだと思いますが、私と伊吹様が初めて出会ったのは。」
俺は静かに耳を傾けた。
「伊吹様は、泣いている私を見つけると近寄ってきて。」
『どうしたの?』
「そう聞いてくださいました。」
「私は泣きながら話しました。」
『悪い人から誰かを守るために練習してる。』
『でも……練習がつらくて、もう嫌なの。』
「すると伊吹様は、少し考えてから背負っていた小さなリュックを開けたんです。」
「中から、一冊の絵本を取り出しました。」
「女騎士が主人公のお話でした。」
「たくさん傷付きながらも強くなって、最後には悪い人から国の人たちを守る物語です。」
青嶌さんは自然と微笑んだ。
「読み終わると、伊吹様は目を輝かせながら私に言いました。」
『あなたは、この主人公みたいだね!』
『かっこいい!』
『すごいね!』
『みんなを守るんでしょ?』
『すてき!』
「……何度も、何度も褒めてくださいました。」
「その言葉が、とても嬉しかったんです。」
「護衛になることが、初めて誇らしいと思えました。」
朝の風が静かに吹き抜ける。
「そこへ、父と神白会長がお迎えに来られました。」
「伊吹様は手を振りながら帰っていきました。」
少し間を置いて、青嶌さんは続ける。
「その後、父が伊吹様の後ろ姿を見ながら、私にこう言ったんです。」
『将来、あのお方を守るのはお前だ。』
「その言葉を聞いた時、不思議と嫌だった訓練が苦じゃなくなりました。」
「伊吹様を守るためなら、どんな訓練でも頑張れる。」
「そう思えたんです。」
青嶌さんは校庭を見下ろした。
グラウンドでは朝練をする生徒たちの声が聞こえる。
「だからこそ。」
「私は伊吹様に、この学校で笑っていてほしい。」
「普通の友達と笑って、寄り道をして、青春を楽しんでいただきたい。」
「それが、伊吹様がずっと望んでいた高校生活ですから。」
俺は昨日の帰り道を思い出す。
クレープ屋を見つめていた神白。
焼きそばパンで笑っていた白。
「だから私は、学校では明るく振る舞っています。」
「護衛の青嶌羽唯ではなく、一人の高校生として。」
青嶌さんは柔らかな笑顔を浮かべた。
「……それが、私にできる一番の護衛だと思っています。」
「ですから…どうか黒鉄くんも伊吹様とは普通の御学友として接してください。」
「……分ったよ。」
俺は静かに頷いた。
「これまで通り、一人の友達として神白さんと接するよ。」
その言葉を聞いた青嶌はふっと頬を緩める。
それは教室で見せる笑顔でも、護衛としての表情でもない。
心の底から安堵したような、自然な笑顔だった。
「……ありがとうございます。」
その笑顔を見て、俺も自然と肩の力が抜ける。
朝の風が屋上を吹き抜けた。
青空の下、俺たちは静かに屋上を後にした。




