11
自室に戻った俺は、姿見の前でネクタイを緩め、制服を脱ぐ。
ベッドへ腰を下ろすと、ポケットから一枚の名刺を取り出した。
――青嶌源吾。
指先でその名をなぞる。
(明日から、本当に俺が護衛なんて……。)
期待よりも、不安の方が大きかった。
窓の外では街の灯りが静かに揺れている。
俺はまだ知らない。
その頃――。
俺とはまったく別の場所で、新たな歯車が静かに動き始めていたことを。
◇ ◇ ◇
人気のない倉庫。
薄暗い空間には、男たちの荒い息遣いだけが響いていた。
「お、お願いします……!」
「もう一度だけチャンスを……!」
床へ這いつくばる三人の男。
昨日、神白伊吹の誘拐に失敗した連中だった。
コツ……コツ……。
静かなヒールの音が倉庫へ響く。
姿を現したのは、一人の女だった。
薄桃色のショートヘアはゆるくパーマがかかり、無造作に跳ねている。
華やかな髪色とは裏腹に、切れ長の瞳には一切の温もりがない。
鋭く吊り上がった目元は、人を一瞥するだけで背筋を凍らせるほどの威圧感を放っていた。
ワインレッドのタイトスカートスーツに身を包み真紅の口紅を引いている。
その美貌には、一片の笑みもない。
「……このグズどもが。」
次の瞬間。
バキッ――。
容赦なく振り抜かれたハイヒールが、スキンヘッドの男の顔面を蹴り飛ばした。
男は悲鳴を上げる間もなく床へ転がる。
残る二人は腰を抜かし、その場から動けなかった。
ロゼは冷え切った視線を向ける。
「あんたらみたいなグズに、いくら金を掛けたと思ってる。」
その目は、人間ではなく壊れた道具を見るようだった。
その時倉庫の奥。
光の届かない闇の中から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
「だから言ったじゃなぁい。」
「素人なんかに任せちゃダメだってぇ。」
間延びしたオカマ口調。
男は異様な風貌をしていた。
左右を大胆に刈り上げたモヒカン。
髪は七色に染め上げられ、薄暗い倉庫だというのにサングラスを掛けている。
耳と鼻にはピアス。
さらに口元の右側には三つ並んだピアスが鈍く光っていた。
黒いスーツに身を包みながらも、その姿は誰よりも異質だった。
男はサングラス越しに三人を見下ろし、ニヤリと口角を吊り上げる。
「あらぁ?」
「そんなに震えちゃってぇ。」
「まだアタシ、何もしてないわよぉ?」
「ねぇ、ロゼちゃん。」
男はゆっくりとしゃがみ込み、金髪の男の頬を指先で優しく撫でた。
「安心してぇ。」
「アタシ、とぉ~っても優しいから。」
表情がわずかに緩んだ――その瞬間。
男は金髪の髪を乱暴に掴み、床へ叩きつける。
ゴンッ――。
鈍い音が倉庫中に響いた。
「誰が許すって言ったのかしら?」
笑顔はそのまま。
声色も変わらない。
そのギャップが、かえって底知れない恐怖を生み出していた。
ロゼは腕を組んだまま、小さくため息をつく。
「相変わらず趣味が悪いわね。百鬼 虹士郎」
百鬼は肩をすくめて笑う。
「だってぇ、尋問担当ですもの。」
「ちゃんとお仕事しなくちゃ。」
決して、それだけではない。
百鬼の歪みきった性質そのものが、容赦ない暴力を生み出していた。
ロゼは冷たい視線を百鬼へ向ける。
「……ただ、今回は私の仕事だったはずよ。」
「勝手に手を出さないでちょうだい。」
独断で動いた百鬼を咎めるように言い放つ。
百鬼は肩をすくめ、大げさに両手を広げた。
「あらやだぁ、ロゼちゃん怖いわぁ。」
「分かった、分かった。」
「今日は大人しくしてるから安心してぇ。」
そう言うと、壁にもたれ掛かり、面白そうに成り行きを眺め始める。
ロゼは床に倒れ込む二人の男へ視線を移した。
ロゼは三人を冷めた目で見下ろすと、小さくため息をついた。
「……興が冷めたわ。」
「今回は見逃してあげる。」
「二度と私の前に顔を見せないことね。」
それだけ言い残すと、ヒールを鳴らしながら倉庫を後にした。
扉が閉まり、倉庫に静寂が訪れる。
残されたのは、百鬼と三人の男だけだった。
床には気絶した二人。
そして、その隣で震えながら座り込む長髪の男だけが、かろうじて意識を保っていた。
百鬼は閉まった扉を見つめ、肩をすくめる。
「本当にロゼちゃんは優しいこと。」
そう呟くと、スーツの内側から鈍く光る一対の鉤爪を取り出し、ゆっくりと両手へ装着する。
カチリ――。
乾いた音が倉庫に響いた。
長髪の男は恐怖で顔を引きつらせた。
「た、助けてくれるんじゃ……。」
百鬼はにっこりと微笑む。
「ロゼちゃんはね。」
「でも、アタシは汚れ仕事担当なの。」
一歩、また一歩と男へ近づく。
「それにぃ……。」
「君たち、アタシたちみたいな組織があることを知っちゃったじゃない。」
「それって、生かして帰せる理由が一つもないのよねぇ。」
男は後ずさる。
「ま、待ってくれ! 俺は誰にも――」
最後まで言わせなかった。
ズブリ。
鉤爪が男の肩へ深々と突き刺さる。
「ぎゃああああぁぁぁっ!!」
悲鳴が倉庫中に響き渡る。
百鬼はその悲鳴に恍惚とした笑みを浮かべた。
「大丈夫よぉ。」
「すぐには殺さないから。」
血の跡を床に残しながら、長髪の男を倉庫の奥へ引きずっていく。
暗闇へ消える直前、百鬼は気絶した二人へ一瞥だけ向けた。
「安心してぇ。」
「次はちゃんと迎えに来てあげるから。」
やがて長髪の男の悲鳴だけが、光の届かない倉庫の奥からいつまでも響き続けていた。




