7
男は構えない。
両手も下げたまま。
ただ立っている。
「……。」
黄瀬は腰を落とした。
左足を前。
両手を軽く上げる。
蹴りを最大限に活かすための構えをとる。
「来いよ。」
その瞬間だった。
男の身体が沈む。
「っ!」
黄瀬が反応する。
一歩踏み込んできた男の右拳が、一直線に飛んでくる。
黄瀬は上体を後に逸らしてかわすと同時に――。
「シッ!」
右膝を跳ね上がる。
鋭い膝蹴り…狙いは鳩尾。
しかし…
男は身体を捻ることで膝蹴りをかわす…
膝が服を掠める。
「……!」
黄瀬は右足の着地と同時に距離を取る。
「はずした…。」
男は何も言わない。
ただ、こちらを見る。
「なら――。」
黄瀬が踏み込む。
今度は左足。
低い位置から一気に振り上げる。
蹴りが男の顎へ迫る。
男は首を傾け、ギリギリでかわす。
そのまま黄瀬の脚を掴もうと手を伸ばす。
「おっと!」
黄瀬は脚を引く。
テコンドーは一つの蹴りで終わらない。
引いた脚をそのまま床へ戻さず、身体を横に傾ける。
「ハッ!」
ヨプチャ・チルギ(横蹴り)
左の踵が一直線に伸びる。
その軌道を男が咄嗟に顔を逸らしてかわす…だが、完全には逃れられなかった、踵が頬を掠め、皮膚を浅く裂いた。
「……。」
黄瀬の口元が上がる。
「当たったな。」
男は頬を指で触れた。
赤くなった皮膚を確認するが――。
「……。」
何も言わない。
黄瀬が構えなおす。
「次はもっと当てるぜ。」
男はゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと。
そして突然。
「――っ!」
距離が消えた。
「速っ!」
黄瀬が腕を上げる。
拳。
肘。
膝。
何が飛んでくるのか分からない。
黄瀬は一歩下がる。
二歩。
三歩。
「くっ……!」
拳を捌きながら、反撃のタイミングを探す。
だが。
男の動きには、一定のリズムがない。
構えがない。
フェイントもない。
「こいつ……!」
黄瀬が横へ飛ぶ。
男の拳が空を切る。
その瞬間。
黄瀬は前足を軸にして、体を180度反転させ相手に背中を向ける。
「これなら!」
ティチャギ(後ろ蹴り)
左脚が鋭く跳ね上がり、伸びきった踵が男の腹部へ深々と食い込んだ。
ドンッ!!
「……!」
今度は確実に入った。
男の身体が後ろへ飛ぶ。
黄瀬は追撃する。
「まだだ!」
前蹴り。
回し蹴り。
後ろ蹴り。
次々と蹴りを繰り出す。
テコンドー特有の、脚を止めない連続攻撃。
男は腕で防ぎ、身体を捻り、時には紙一重でかわす。
だが。
「そこ!」
黄瀬の蹴りが男の肩を捉えた。
さらに一撃。
今度は腹。
「ぐっ……。」
初めて男の口から声が漏れた。
黄瀬は息を荒くしながら笑う。
「どうだ……!」
その瞬間。
男の目が変わった。
「……。」
次の瞬間。
男は蹴りを避けるのではなく――。
腕で受けながら、そのまま踏み込んだ。
「なっ!?」
距離が近すぎる。
黄瀬の蹴りは、近距離では威力を出し切れない。
男の両手が伸び、黄瀬の胸ぐらを左右から乱暴に掴んだ。
「なっ――」
次の瞬間、ぐっと腕が引かれる。
黄瀬の身体が前へ引き寄せられ、男との距離が一気に縮まった。
男は黄瀬の服を掴んだまま、顔を近づける。
そして――
すっと頭を後ろへ引いた。
「……ッ!」
黄瀬が異変に気づいた瞬間だった。
男の頭が勢いよく前へ振り出される。
ゴッ!!
鈍い音が路地に響いた。
硬い額が、黄瀬の鼻先へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
黄瀬の身体が後ろへよろめく。
鼻を押さえながら、目を見開いた。
視界が揺れる。
「くっ……!」
よろめいた黄瀬の腹に、拳が突き刺さる。
「ぐはっ!」
くの字に折れた黄瀬の胸倉をふたたび掴む。
「離せ!」
黄瀬が拳を振る。
だが男は黄瀬の腕を掴み…捻る。
「ぐっ……!」
関節を極めるような綺麗な技ではない。
ただ、痛む方向へ無理やり持っていく。
黄瀬が身体を捻って逃れる。
「この野郎!」
距離を取る。
息が荒い。
口の中に鉄の味が広がる。
それでも黄瀬は構え直した。
「……まだ終わってねぇ。」
男は黙っている。
ただ、ゆっくりと歩いてくる男に、黄瀬は歯を食いしばると再度オーソドックスの構えをとる。
「来いよ……!」
腕を上げ、今度は黄瀬から踏み込んだ。
一歩目で距離を詰め、二歩目で身体を沈める。
「――っ!」
左のつま先が外へ開く。
それと同時に腰が深く捻られ、踵が男へ向いた。
一瞬、身体の動きが止まったように見える。
だが、それは次の一撃へ力を溜めるための静止だった。
次の瞬間――
蓄えた力が一気に解き放たれる。
腰が鋭く回り、右脚が大きく跳ね上り、風を切りながら男の側頭部へ迫る。
だが――
男の反応は速かった。
「……っ!」
顔をわずかに逸らす。
ヒュッ――。
足の指先が鼻先をかすめ、長い髪が風圧で大きく揺れた。
「チッ!」
黄瀬は舌打ちしながら、着地した足を軸にそのまま反対の脚を真っ直ぐに突き出した。
二段目は前蹴り。
今度は腹部。
男が腕を下げて受ける。
ドンッ!
鈍い音が住宅街に響いた。
男の身体が僅かに後ろへ流れる。
「そこだ!」
黄瀬は逃がさない。
着地した瞬間、さらに踏み込む。
右足を頭上へと高く跳ね上げる。
顎を狙った鋭い蹴り。
男は上体を後に反らしてかわす。
その瞬間――。
黄瀬は空中で右足をピタリと止めた。
「まだ終わってねぇ!」
そのまま一気に真下へと振り下ろす。
踵が唸る。
完璧なネリチャギ(かかと落とし)。
男の顔面へ向かって、振り下ろされた。
しかし。
男は腕を上げて受け止めた。
「――!」
黄瀬の目が見開かれる。
止められた。
ならば――。
黄瀬は蹴り足を引こうとする。
だが、その瞬間だった。
男の手が足首を掴んだ。
「なっ――!」
ぐいっ。
身体が引かれる。
黄瀬は咄嗟に跳び上がり、軸足を浮かせた。
次の瞬間。
男の拳が、さっきまで黄瀬の頭があった場所を通り過ぎる。
「危ねぇ!」
黄瀬は着地した瞬間、身体を止めること無く、上半身を大きく後ろへ反らす。
「これなら――!」
折り畳んでいた脚が鋭く跳ね上がった。
至近距離から放たれた膝が、男の腹部を狙う。
だが――
男は半歩だけ身体を横へ滑らせ、空を切らせた。
「なっ――」
黄瀬の身体が前へ流れたその一瞬を男は逃さない。
素早く踏み込むと肩を低く落とし、黄瀬の胸元へ潜り込むように身体をぶつけた。
ドンッ!!
鈍い衝撃が響く。
「ぐっ――!」
黄瀬の身体が大きく弾かれ、背中が後方へ流れ、体勢が崩れる。
男はそのまま黄瀬の腕を掴み、身体を捻った。
投げるというより――。
勢いのまま、地面へ叩き落とす。
「がっ!」
背中がアスファルトに打ち付けられ、一瞬息が詰まった。
「……くっ!」
黄瀬は転がるようにして距離を取る。
だが――。
男は、待ってくれなかった。
「……っ!」
黄瀬が立ち上がろうとした、その瞬間。
男の足が目の前まで迫る。
「ぐっ!」
咄嗟に腕を交差して受けが、それでも衝撃を殺しきれない。
身体が横へ弾かれ、肩から地面へ転がった。
「くそっ……!」
黄瀬は弾かれた身体を転がし、すぐさま起き上がろうとした。
「……っ!」
手を地面についた、その瞬間だった。
視界の端に、男の影が飛び込んでくる。
もう目の前にいる。
「――!」
速い。
男の右肩が沈んだ。
次の瞬間、拳が唸りを上げて振り下ろされる。
黄瀬は反射的に顔を横へ逸らした。
ヒュッ――!
拳が頬を掠めると髪が数本、宙へ舞った。
「っ……!」
頬に走る熱い痛み。
それだけで皮膚が裂け、熱い痛みが走る。
「っ……!」
次の瞬間。
左手の指が黄瀬の髪を乱暴に掴む。
「な――」
ぐいっ。
身体を引き寄せられる。
「しまっ――」
避ける暇などなかった。
男の頭が、目の前まで迫る。
ゴッ!!
額が黄瀬の顔面に叩き込まれた。
「――ッ!」
世界が白く弾けた。
何が起きたのか、一瞬わからない。
耳の奥で高い音が鳴り、足元から地面が消えたように感じる。
鼻の奥に熱いものが込み上げ、口の中には鉄のような味が広がった。
「はぁ……っ、はぁ……!」
黄瀬はふらつきながら後退する。
だが男は一切の躊躇無く腰の回転とともに拳が鳩尾へと突き出される。。
「ぐっ……!」
今度は脇腹。
「がっ!」
肋骨の奥まで響く衝撃に、身体が勝手に横へ折れる。
そこへ――
男の脚が振り上がった。
「ぐはっ――!」
前蹴りが胸元を捉える。
黄瀬の身体が宙へ浮き、そのまま後方へ吹き飛んだ。
ドンッ!!
「ぐはっ――!」
黄瀬の背中が、電柱へ打ち付けられた。
「ぐ……っ!」
背中に鈍い痛みが走る。
逃げようとした腕を、男が掴む。
そのまま引き寄せ――。
膝が腹へ突き上がった。
「がはっ……!」
胃の中身まで押し上げられるような衝撃。
黄瀬の身体が浮いた。
つま先が地面から離れる。
それでも、落ちない。
膝を震わせながら、必死に地面を踏みしめる。
「……まだ……」
息を吸うことすら苦しい。
それでも拳を握った。
「まだ……やれる……!」
ふらつきながら構えを作る。
男は、それを見て――。
ただ拳を振った。
バシンッ!
構えた腕ごと打ち抜かれる。
「ぐっ!」
腕が跳ね上がり、指先まで痺れが走る。
その隙を逃さない。
男の拳が、再び腹へ潜り込んだ。
ドッ!!
「――ッ!」
黄瀬の身体がくの字に折れた。
今度こそ、支えきれない。
両膝が地面へ落ちる。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
呼吸ができない。
視界が滲む。
手をついても、身体が言うことを聞かない。
それでも――黄瀬は顔を上げた。
霞む視界の向こう。
男が立っている。
肩で息をすることもない。
汗一つ浮かべず、呼吸すら乱れていない。
黄瀬は乾いた唇を動かした。
「……化け物……かよ……」
男は答えなかった。
ただ、倒れた黄瀬を静かに見下ろしていた。




