8
男はしばらく黄瀬を見下ろしていた。
街灯の白い光が、灰色の髪を淡く照らしている。
黄瀬は地面に片膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「……はぁ……っ。」
息を吸うだけで、脇腹が痛む。
腹部には重たい鈍痛が残り、殴られた頬は熱を持っている。
それでも黄瀬は顔を上げた。
「……。」
目の前にいる男を睨みつける。
名前すら知らない。
どこから来たのかも。
何のために襲ってきたのかも。
何一つ分からない。
ただ一つだけ分かる。
――自分は、何もできなかった。
喧嘩だって、そこそこ強いと思っていた。
なのに。
目の前の男には届かなかった。
蹴りを当てても倒れない。
攻撃を読もうとしても、動きが読めない。
技術も、構えも、型もない。
なのに――強い。
「……くそ……。」
黄瀬が歯を食いしばる。
男はそんな黄瀬を、しばらく無言で見つめていた。
やがて――。
ふっ。
ほんの僅かに視線を外す。
まるで、もう用はないと言わんばかりに。
「……。」
男は踵を返した。
そのまま、黄瀬の横を通り過ぎていく。
「……待て……。」
黄瀬が声を絞り出した。
喉が焼けるように痛い。
「……てめぇ……。」
それでも、男は止まらない。
「何なんだよ……。」
足音だけが遠ざかっていく。
コツ。
コツ。
コツ。
静まり返った住宅街に、靴音だけが妙にはっきり響く。
「……。」
黄瀬は拳を地面についた。
悔しかった。
負けたことが悔しい。
それ以上に――。
何もできなかったことが悔しい。
「……くそっ!」
拳を握りしめる。
痛みが走る。
それでも離さない。
「……あいつ……。」
遠ざかっていく灰色の髪を睨みつける。
「……覚えてろよ……。」
それは、強がりだった。
今すぐ追いかけることすらできない自分への、精一杯の意地だった。
男は振り返らずに街灯の向こうへ消えていった。
◇
それから、どれくらい経っただろう。
黄瀬は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……っ。」
足に力を入れた瞬間、全身に痛みが走る。
「いてぇ……。」
思わず顔をしかめる。
頬。
腹。
背中。
腕。
身体のあちこちが、まるで別々の場所から痛みを訴えてくる。
それでも歩くしかない。
こんなところで朝まで倒れているわけにもいかなかった。
黄瀬は何度も立ち止まりながら、夜道を歩いた。
街灯を一つ越える。
また一つ。
いつもなら何とも思わない距離が、今日はやけに長く感じた。
「……はぁ……。」
息を吐く。
頭の中には、さっきの戦いが何度も浮かんでくる。
自分の蹴り。
男の拳。
掴まれた腕。
地面に叩きつけられた感覚。
そして――。
あの、何も感じていないような目。
「……気味悪ぃ……。」
黄瀬は小さく呟いた。
やがて、見慣れた住宅街が見えてくる。
「……やっと着いた。」
自宅の前まで来たところで、黄瀬は大きく息を吐いた。
鍵を取り出す。
手が震えている。
「……なんだよ、これ。」
自分の手を見ながら、苦笑する。
今まで、こんなに身体が言うことを聞かなくなったことなんてなかった。
鍵を差し込み、玄関を開ける。
「……ただいま。」
声は小さかった。
家の中から返事が聞こえる。
けれど、返事を返す余裕はなかった。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
そのまま階段を上がる。
一段。
また一段。
「……っ。」
階段を上るだけで腹が痛む。
ようやく自分の部屋へ辿り着くと、黄瀬はドアを開けた。
そして――。
ベッドへ身体を投げ出した。
「……いてぇ……。」
背中が沈んだ瞬間、また痛みが走る。
「……くっ……。」
黄瀬は顔をしかめながら天井を見上げた。
白い天井。
見慣れた部屋。
いつもと何も変わらない。
なのに。
自分だけが、まるで別人になったような気がした。
「……なんだったんだよ、あいつ……。」
灰色の長い髪。
波を打つような髪型。
感情の読めない目。
そして、型も構えもない。
ただ殴って、蹴って、掴んで、叩きつける。
なのに――。
強かった。
黄瀬はぼんやりと呟く。
「……あんな喧嘩……見たことねぇよ。」
悔しさが込み上げてくる。
拳を握ろうとする。
だが、指に力が入らない。
「……明日……。」
朝陽たちの顔が浮かぶ。
「……言わねぇとな……。」
何が起きたのか。
誰に襲われたのか。
そして――。
あの男が、最初に口にした名前。
「……神白さん……。」
その名前を呟いたところで、黄瀬の意識が少しずつ遠のいていった。
「……くそ……。」
最後に小さく呟く。
「……なんで……。」
その先の言葉を口にすることはできなかった。
疲労と痛みに耐えきれず、黄瀬はそのまま眠りへ落ちていった。
部屋には、静かな寝息だけが残った。
◇
翌朝。
開路学園。
朝の教室には、いつもと変わらない賑やかな声が響いていた。
「おはよー!」
「おはよう。」
「昨日のテレビ見た?」
「見た見た!」
俺は自分の席に着き、鞄を机の横へ掛ける。
「おはよう、黒鉄君。」
「おはよう。」
小紫さんに挨拶を返す。
その隣では、青嶌さんが教室の後ろへ視線を向けていた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「黄瀬君、まだ来てないね。」
俺も時計を見る。
始業まで、まだ十五分ほどある。
黄瀬はいつも、だいたい五分前くらいには教室へ入ってくる。
「まだ時間あるからね。」
「そうだね。」
青嶌さんも頷いた。
「昨日も元気だったし。」
「はい。」
小紫さんも黄瀬の席を見る。
「別れた時も、いつも通りでしたよね。」
「うん。」
昨日のことを思い出す。
ファミレスで騒いで。
帰り道でもくだらない話をして。
駅では、
『じゃあ、また明日な!』
そう言って別れた。
だから、この時はまだ何も気にしていなかった。
黄瀬なら、そのうち来る。
いつものように、少し余裕を持って教室へ入ってくる。
そう思っていた。
――五分前。
普段なら、そろそろ黄瀬が来る時間だ。
けれど。
教室の扉は開かない。
「……。」
青嶌さんが時計を見る。
「まだ来てないね。」
「まあ、今日はちょっと遅いだけじゃない?」
俺がそう言った直後。
キーンコーンカーンコーン――。
予鈴が鳴った。
教室の中が少しずつ静かになる。
生徒たちが席へ戻っていく。
俺は何となく、もう一度扉を見る。
……開かない。
「……あれ?」
青嶌さんの声が小さくなる。
小紫さんも、少し心配そうに黄瀬の席を見る。
「黄瀬君……まだ来ませんね。」
「うん…。」
さっきまでは何とも思わなかった。
けれど。
いつもなら、もういるはずの時間だ。
「寝坊……かな?」
青嶌さんが呟く。
「寝坊…なのかも。」
俺が答えた、その時。
ガラッ。
教室の扉が開いた。
「おはよう。」
担任が入ってくる。
「はい、席につけ。」
生徒たちが一斉に席へ戻る。
俺も前を向く。
担任が教壇に立ち、出席簿を開いた。
「それでは、出席を取ります。」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
「青嶌。」
「はーい!」
「神白。」
「はい。」
「黄瀬。」
「。」
返事がない。
「……。」
担任が顔を上げる。
もう一度、出席簿へ目を落とす。
「黄瀬?」
やはり返事はない。
教室の中に、小さなざわめきが起こる。
俺は無意識に黄瀬の席を見る。
誰もいない。
昨日まで、そこにいたはずの黄瀬が。
今日は――いない。
「……。」
胸の奥に、嫌な感覚が走った。
まだ、この時の俺たちは知らない。
昨夜。
黄瀬が何者かに襲われていたことを。
そして。
その襲撃が――。
これから始まる一連の事件の、最初の一歩だったことを。




