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護衛対象は、お嬢様でした。  作者: 愚兎
結婚相手候補に、会ってみました。
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127/127

8


男はしばらく黄瀬を見下ろしていた。

街灯の白い光が、灰色の髪を淡く照らしている。

黄瀬は地面に片膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

「……はぁ……っ。」

息を吸うだけで、脇腹が痛む。

腹部には重たい鈍痛が残り、殴られた頬は熱を持っている。

それでも黄瀬は顔を上げた。

「……。」

目の前にいる男を睨みつける。

名前すら知らない。

どこから来たのかも。

何のために襲ってきたのかも。

何一つ分からない。

ただ一つだけ分かる。

――自分は、何もできなかった。

喧嘩だって、そこそこ強いと思っていた。

なのに。

目の前の男には届かなかった。

蹴りを当てても倒れない。

攻撃を読もうとしても、動きが読めない。

技術も、構えも、型もない。

なのに――強い。

「……くそ……。」

黄瀬が歯を食いしばる。

男はそんな黄瀬を、しばらく無言で見つめていた。

やがて――。

ふっ。

ほんの僅かに視線を外す。

まるで、もう用はないと言わんばかりに。

「……。」

男は踵を返した。

そのまま、黄瀬の横を通り過ぎていく。

「……待て……。」

黄瀬が声を絞り出した。

喉が焼けるように痛い。

「……てめぇ……。」

それでも、男は止まらない。

「何なんだよ……。」

足音だけが遠ざかっていく。

コツ。

コツ。

コツ。

静まり返った住宅街に、靴音だけが妙にはっきり響く。

「……。」

黄瀬は拳を地面についた。

悔しかった。

負けたことが悔しい。

それ以上に――。

何もできなかったことが悔しい。

「……くそっ!」

拳を握りしめる。

痛みが走る。

それでも離さない。

「……あいつ……。」

遠ざかっていく灰色の髪を睨みつける。

「……覚えてろよ……。」

それは、強がりだった。

今すぐ追いかけることすらできない自分への、精一杯の意地だった。

男は振り返らずに街灯の向こうへ消えていった。

それから、どれくらい経っただろう。

黄瀬は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。

「……っ。」

足に力を入れた瞬間、全身に痛みが走る。

「いてぇ……。」

思わず顔をしかめる。

頬。

腹。

背中。

腕。

身体のあちこちが、まるで別々の場所から痛みを訴えてくる。

それでも歩くしかない。

こんなところで朝まで倒れているわけにもいかなかった。

黄瀬は何度も立ち止まりながら、夜道を歩いた。

街灯を一つ越える。

また一つ。

いつもなら何とも思わない距離が、今日はやけに長く感じた。

「……はぁ……。」

息を吐く。

頭の中には、さっきの戦いが何度も浮かんでくる。

自分の蹴り。

男の拳。

掴まれた腕。

地面に叩きつけられた感覚。

そして――。

あの、何も感じていないような目。

「……気味悪ぃ……。」

黄瀬は小さく呟いた。

やがて、見慣れた住宅街が見えてくる。

「……やっと着いた。」

自宅の前まで来たところで、黄瀬は大きく息を吐いた。

鍵を取り出す。

手が震えている。

「……なんだよ、これ。」

自分の手を見ながら、苦笑する。

今まで、こんなに身体が言うことを聞かなくなったことなんてなかった。

鍵を差し込み、玄関を開ける。

「……ただいま。」

声は小さかった。

家の中から返事が聞こえる。

けれど、返事を返す余裕はなかった。

靴を脱ぐ。

鞄を置く。

そのまま階段を上がる。

一段。

また一段。

「……っ。」

階段を上るだけで腹が痛む。

ようやく自分の部屋へ辿り着くと、黄瀬はドアを開けた。

そして――。

ベッドへ身体を投げ出した。

「……いてぇ……。」

背中が沈んだ瞬間、また痛みが走る。

「……くっ……。」

黄瀬は顔をしかめながら天井を見上げた。

白い天井。

見慣れた部屋。

いつもと何も変わらない。

なのに。

自分だけが、まるで別人になったような気がした。

「……なんだったんだよ、あいつ……。」

灰色の長い髪。

波を打つような髪型。

感情の読めない目。

そして、型も構えもない。

ただ殴って、蹴って、掴んで、叩きつける。

なのに――。

強かった。

黄瀬はぼんやりと呟く。

「……あんな喧嘩……見たことねぇよ。」

悔しさが込み上げてくる。

拳を握ろうとする。

だが、指に力が入らない。

「……明日……。」

朝陽たちの顔が浮かぶ。

「……言わねぇとな……。」

何が起きたのか。

誰に襲われたのか。

そして――。

あの男が、最初に口にした名前。

「……神白さん……。」

その名前を呟いたところで、黄瀬の意識が少しずつ遠のいていった。

「……くそ……。」

最後に小さく呟く。

「……なんで……。」

その先の言葉を口にすることはできなかった。

疲労と痛みに耐えきれず、黄瀬はそのまま眠りへ落ちていった。

部屋には、静かな寝息だけが残った。




翌朝。

開路学園。

朝の教室には、いつもと変わらない賑やかな声が響いていた。

「おはよー!」

「おはよう。」

「昨日のテレビ見た?」

「見た見た!」

俺は自分の席に着き、鞄を机の横へ掛ける。

「おはよう、黒鉄君。」

「おはよう。」

小紫さんに挨拶を返す。

その隣では、青嶌さんが教室の後ろへ視線を向けていた。

「……あれ?」

「どうしたの?」

「黄瀬君、まだ来てないね。」

俺も時計を見る。

始業まで、まだ十五分ほどある。

黄瀬はいつも、だいたい五分前くらいには教室へ入ってくる。

「まだ時間あるからね。」

「そうだね。」

青嶌さんも頷いた。

「昨日も元気だったし。」

「はい。」

小紫さんも黄瀬の席を見る。

「別れた時も、いつも通りでしたよね。」

「うん。」

昨日のことを思い出す。

ファミレスで騒いで。

帰り道でもくだらない話をして。

駅では、

『じゃあ、また明日な!』

そう言って別れた。

だから、この時はまだ何も気にしていなかった。

黄瀬なら、そのうち来る。

いつものように、少し余裕を持って教室へ入ってくる。

そう思っていた。

――五分前。

普段なら、そろそろ黄瀬が来る時間だ。

けれど。

教室の扉は開かない。

「……。」

青嶌さんが時計を見る。

「まだ来てないね。」

「まあ、今日はちょっと遅いだけじゃない?」

俺がそう言った直後。

キーンコーンカーンコーン――。

予鈴が鳴った。

教室の中が少しずつ静かになる。

生徒たちが席へ戻っていく。

俺は何となく、もう一度扉を見る。

……開かない。

「……あれ?」

青嶌さんの声が小さくなる。

小紫さんも、少し心配そうに黄瀬の席を見る。

「黄瀬君……まだ来ませんね。」

「うん…。」

さっきまでは何とも思わなかった。

けれど。

いつもなら、もういるはずの時間だ。

「寝坊……かな?」

青嶌さんが呟く。

「寝坊…なのかも。」

俺が答えた、その時。

ガラッ。

教室の扉が開いた。

「おはよう。」

担任が入ってくる。

「はい、席につけ。」

生徒たちが一斉に席へ戻る。

俺も前を向く。

担任が教壇に立ち、出席簿を開いた。

「それでは、出席を取ります。」

一人ずつ名前が呼ばれていく。

「青嶌。」

「はーい!」

「神白。」

「はい。」

「黄瀬。」

「。」

返事がない。

「……。」

担任が顔を上げる。

もう一度、出席簿へ目を落とす。

「黄瀬?」

やはり返事はない。

教室の中に、小さなざわめきが起こる。

俺は無意識に黄瀬の席を見る。

誰もいない。

昨日まで、そこにいたはずの黄瀬が。

今日は――いない。

「……。」

胸の奥に、嫌な感覚が走った。

まだ、この時の俺たちは知らない。

昨夜。

黄瀬が何者かに襲われていたことを。

そして。

その襲撃が――。

これから始まる一連の事件の、最初の一歩だったことを。

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