5
しばらくするとキッチンには、香ばしい匂いが広がっていた。
ジュウッ――。
フライパンの上ではハンバーグがこんがりと焼き色を付け、隣では唐揚げが心地よい音を立てながら揚がっていく。
「うん、いい感じ。」
母は頷きながらハンバーグをひっくり返す。
ふわっと立ち上る香りに、神白さんは思わず笑みを浮かべた。
「すごく……いい匂いですね。」
「でしょ?」
「これくらい焼き色が付くと、一番美味しいのよ。」
その隣では、小紫さんが揚げたての唐揚げを丁寧にバットへ並べている。
「小紫さん、その調子。」
「はい。」
「ありがとうございます。」
母は満足そうに頷いた。
最初は少し緊張していた二人も、今では息もぴったりだ。
神白さんがハンバーグを焼けば、小紫さんがサラダを盛り付ける。
小紫さんが味噌汁の具材を準備すれば、神白さんが食器を並べる。
まるで前から一緒に料理をしてきたかのような連携だった。
「本当に助かったわ。」
母が優しく笑う。
「二人がいてくれたから、思っていたよりずっと早く終わっちゃった。」
「いえ。」
神白さんは小さく首を振る。
「私たちも、とても楽しかったです。」
「はい。」
小紫さんも微笑むと。
「初めてこんなにたくさんのお料理を作りました。」
「また機会がありましたら、ぜひお手伝いさせてください。」
「もちろんよ。」
母は嬉しそうに笑った。
「いつでも大歓迎。」
「さて。」
「あと残るのは盛り付けくらいね。」
その時だった。
――ピンポーン。
玄関にチャイムが鳴り響く。
「あら。」
母は壁掛け時計へ目を向ける。
「ちょうど来たみたいね。」
「朝陽ー。」
「お願いできる?」
リビングから返事が返ってくる。
「はいはい。」
俺は立ち上がると、玄関へ向かった。
ガチャリ、と扉を開ける。
「よっ!」
一番に姿を現したのは黄瀬だった。
「朝陽!」
「来たぞー!」
その後ろから青嶌が笑いながら手を振る。
「こんにちは。」
「お邪魔しまーす。」
俺は二人を見て軽く笑う。
「いらっしゃい。」
「時間ぴったりだな。」
「当然。」
黄瀬は胸を張る。
「こういう日は遅刻厳禁だからな!」
そう言いながら黄瀬が家へ入ろうとした、その時。
ふわりと漂ってきた料理の香りに、ぴたりと足を止める。
「……。」
「……。」
「朝陽。」
「もう食べていい?」
「早いだろ…。」
俺が即座に突っ込む。
青嶌はそんな黄瀬を見て吹き出した。
「黄瀬君。」
「まだ家に入って一分も経ってないよ?」
「だってさ!」
「めちゃくちゃいい匂いなんだけど!」
「お腹空いた!」
「だから勉強会だって。」
青嶌が笑いながら肩をすくめる。
その時。
キッチンから神白さんと小紫さんが顔を覗かせた。
キッチンに立つ二人を見て、青嶌は目を丸くする。
「わっ。」
「神白さん。」
「本当にお手伝いしてたんだね。」
「うん。」
神白さんは少し照れながら微笑む。
「黒鉄君のお母様に色々教えていただきました。」
「ハンバーグも神白さんが焼いたんだよ。」
母が少し誇らしげに言う。
「すごいじゃん!」
青嶌は素直に拍手した。
「私だったら途中で絶対焦ってる。」
「そんなことありません。」
神白さんは首を横に振る。
「お母様が、とても分かりやすく教えてくださいましたので。」
そのやり取りを聞いていた黄瀬は、目を輝かせる。
「ってことは!」
「今日は神白さんと小紫さんの手料理も食べられるってこと!?」
「やったぁぁぁ!」
「お前はまず勉強しろ。」
俺のツッコミに、玄関は笑い声で包まれた。
全員揃ったタイミングで参考書を開く。
「二時間だけ集中してやろっか。」
「はーい。」
「了解。」
黄瀬だけが不満そうに頬を膨らませる。
「俺だけ帰っていい?」
「ダメ。」
即答だった。
部屋に笑いが広がる。
◇
それから二時間。
分からない問題があれば神白さんが教え。
青嶌が補足し。
俺が別の解き方を説明する。
小紫さんも真剣にノートをまとめていた。
黄瀬は何度も頭を抱えながら、
「なんで答えがそうなるんだよ!」
「数学作ったやつ出てこい!」
などと騒ぎ、
その度に部屋は笑いに包まれた。
勉強は思っていた以上に順調に進み、
気が付けば時計の針は昼を回っていた。
その時だった。
キッチンから母の声が響く。
「みんなー!そろそろご飯にしましょ。」
母が料理を運び終えると、食卓はあっという間に賑やかになった。
ハンバーグに唐揚げ。
サラダに味噌汁。
湯気の立つ料理を前に、黄瀬は目を輝かせる。
「うわぁ!」
「めちゃくちゃ豪華!」
「今日は勉強会じゃなくて、ご飯会じゃん!」
「違う。」
俺が即座に突っ込む。
「勉強のご褒美。」
「細かいことはいいじゃん!」
黄瀬は笑いながら両手を合わせた。
「いただきまーす!」
「まだ。」
俺が静かに言う。
「みんな揃ってから。」
「あ。」
黄瀬は箸を止める。
「……ごめん。」
その姿に、青嶌が吹き出した。
「黄瀬君。」
「今日はちゃんと待てたね。」
「子ども扱いすんな!」
「だって普段ならもう食べてるじゃん。」
「否定できない……。」
部屋に笑いが広がる。
母も優しく笑い。
「それじゃ。」
「みんな。」
「いただきます。」
「「いただきます。」」
温かな声が重なり、賑やかな昼食が始まった。
目の前にはハンバーグ、唐揚げ、味噌汁、サラダ。
どれも湯気が立っていて、見ているだけで腹が鳴りそうだった。
「うわぁ!」
「めちゃくちゃうまそう!」
黄瀬は早くも目を輝かせている。
「だから飛びつくなって。」
「分かってる分かってる!」
そう言いながらも、箸を持つ手は誰よりも早かった。
思わず苦笑しながら、俺も箸を手に取る。
まずは神白さんが作ってくれたハンバーグから食べてみる。
箸を入れると、ふっくらとした感触が伝わってきた、まずは一口目。
柔らかい。
肉汁もしっかり閉じ込められていて、ソースともよく合っている。
普通にうまい。
「……おいしい。」
素直にそう口にすると、
「ほ、本当ですか?」
神白さんが少し前のめりになって聞いてきた。
「うん。」
「焼き加減もちょうどいい。」
「食べやすいし、普通に店で出てもおかしくないくらいだよ。」
そう答えると、
「よ、よかったです……。」
神白さんはほっとしたように胸を撫で下ろした。
今度は唐揚げへ箸を伸ばす。
揚げたてらしく衣が軽く、一口噛むと、サクッという音と一緒に肉汁が口いっぱいに広がった。
「……これもう。おいしい」
「味もしっかり付いてる。」
「ご飯が進むね。」
「ありがとうございます。」
小紫さんは優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、俺も自然と頷く。
「二人とも料理上手なんだな。」
「正直びっくりした。」
「お母様が教えるの上手なんですよ。」
神白さんが照れ笑いを浮かべる。
「私もそう思います。」
小紫さんも小さく頷いた。
「黒鉄君のお母様のおかげです。」
「いやいや。」
母は笑いながら首を振る。
「二人とも最初から筋が良かったのよ。」
そんなことを話していると、
「朝陽!」
黄瀬が急に身を乗り出してきた。
「で!」
「結局どっちが一番うまいんだ!?」
「は?」
思わず聞き返す。
「だから!」
「ハンバーグと唐揚げ!」
「どっち!」
「どっちも。」
即答だった。
「ハンバーグと唐揚げを比べる意味が分からない。」
「どっちも種類が違うし。」
「どっちも普通においしい。」
「黄瀬君…。」
「黒鉄君にそういうの期待しても無駄だよ。」
青嶌さんは笑いながら諭すような言い方で黄瀬に話す。
「ある意味、一番平和な答えか。」
「意味分かんねぇ。」
そう返すと、食卓にはまた笑い声が広がった。
その後は、黄瀬が何度目かのご飯のおかわりを宣言し、青嶌さんに「まだ食べるの?」と呆れられる。
母さんはそんな二人を見て楽しそうに笑い、小紫さんも口元を押さえながらくすりと微笑んでいた。
俺も自然と笑っていた。
こんな時間を過ごすようになったのは、高校へ入ってからだ。
少し前の俺なら、想像もしていなかっただろう。
そんな和やかな空気の中だった。
「……あの。」
神白さんが、静かに口を開いた。
その声は決して大きくはなかった。
けれど、不思議とその場にいた全員の耳へ届く。
黄瀬も箸を止める。
青嶌さんも神白さんへ視線を向けた。
神白さんは一度膝の上で手を重ね、小さく息を吸う。
「皆さんに、お伝えしたいことがあります。」
その表情を見て、さっきまでの賑やかな空気が少しだけ落ち着いた。
俺は静かに神白さんを見る。
「どうした?」
神白さんは俺の方を見て、小さく頷いた。
「以前、お話しした……婚約のお話ですが。」
その言葉に、黄瀬が「あっ……。」と小さく声を漏らす。
文化祭のあと、校門で千金楽無我が現れた日のことを、みんな思い出したのだろう。
神白さんはゆっくりと言葉を続ける。
「お父様と改めてお話をしました。」
「その結果……。」
少しだけ言葉を区切る。
そして、穏やかな笑顔を浮かべた。
「婚約のお話は、正式に白紙となりました。」
一瞬、食卓が静まり返る。
「……え?」
最初に声を上げたのは黄瀬だった。
「ほ、本当に?」
神白さんは嬉しそうに頷く。
「はい。」
「お父様が、ご自身で決断してくださいました。」
「私には、自分で将来を選んでほしいと……。」
「そう言ってくださいました。」
その笑顔は、どこか肩の荷が下りたようにも見えた。
青嶌さんはほっと息を吐き、自然と笑みを浮かべる。
「そっか……。」
「よかったね、神白さん。」
「ありがとう。」
神白さんは優しく微笑み返した。
小紫さんも静かに頭を下げる。
「本当に、おめでとうございます。」
「ようやく安心できますね。」
「はい。」
神白さんは小さく頷く。
「もちろん、これからも神白家の一人としての責任はあります。」
「でも……。」
「人生そのものを誰かに決められることは、もうありません。」
そう言って、神白さんは一瞬だけ俺を見る。
「これは……。」
「黒鉄君のお母様のおかげでもあります。」
「え?」
思わず母さんを見る。
母さんは照れくさそうに笑った。
「私は何もしてないわよ。」
「ただ、宗一郎さんとお話ししただけ。」
神白さんは首を横に振る。
「いいえ。」
「あの日、お父様は黒鉄君のお母様とお話ししたことで、自分が私の人生に干渉しすぎていたと気付いたそうです。」
「『伊吹には、自分で幸せを選んでもらいたい。』」
「そう言ってくださいました。」
神白さんは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔には、以前までどこかにあった迷いがなかった。
母さんも優しく頷く。
「宗一郎さんは、娘さんのことを本当に大切に思ってるのよ。」
「だからこそ、いっぱい悩んだんでしょうね。」
神白さんの目が少し潤む。
「……はい。」
「私も、そう思います。」
俺は神白さんを見て、小さく笑った。
「よかったな。」
たった一言。
それだけだった。
だけど神白さんは、その一言が何より嬉しかったのか、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「はい。」
「本当に……よかったです。」
食事を終えた後も、勉強会は和やかな雰囲気のまま続いた。
分からない問題を教え合い。
くだらないことで笑い合い。
時には黄瀬が騒ぎ、そのたびに青嶌さんが呆れ、俺が突っ込む。
気が付けば、窓の外はすっかり夕焼けから夜の景色へと変わっていた。
勉強も思っていた以上にはかどり、気付けば予定していた範囲は全員が終えていた。
帰る頃には、勉強で疲れたのか、それとも笑いすぎて疲れたのか、自分でもよく分からない。
ただ一つだけ言えるのは――
今日は、本当に楽しかったということだった。
「今日はありがとうございました。」
玄関で神白さんが深く頭を下げる。
「本当に楽しかったです。」
「私もです。」
小紫さんも穏やかに微笑んだ。
「また皆さんとご一緒できる日を楽しみにしております。」
「もちろん!」
黄瀬が元気よく手を挙げる。
「次も絶対やろう!」
「その前に期末テストだけどね。」
青嶌さんが笑いながら言う。
「全員で頑張ろ。」
「うん。」
俺も静かに頷いた。
「また学校で。」
「うん。」
神白さんは嬉しそうに微笑み、小さく手を振る。
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
四人は神白家送迎の車に乗り込むと夜の住宅街へ消えていく。
俺は走り去る車のテールランプを見送り、静かに玄関の扉を閉めた。
リビングへ戻ると、母さんが食器を片付けながら優しく笑う。
「今日は賑やかだったわね。」
「そうだね。」
「みんな楽しそうだった。」
「朝陽もね。」
「……そう?」
「そうよ。」
母さんは迷いなく頷いた。
「高校に入って、本当にいい友達ができたじゃない。」
その言葉に、俺は少しだけ照れくさくなる。
「……そうだね。」
今まで当たり前だと思っていた一人の時間。
それも悪くはなかった。
だけど今は。
誰かと笑い合い、同じ時間を過ごす日常が、少しずつ当たり前になってきている。
そんな何気ない毎日が、不思議と心地よかった。
その頃――。
神白家、本邸。
宗一郎は書斎の椅子へ深く腰を下ろし、静かにスマートフォンを耳へ当てていた。
「……無我君。」
『はい、宗一郎様。』
受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「夜分にすまない。」
『いえ。』
『宗一郎様からのお電話でしたら、いつでも構いません。』
宗一郎は一度目を閉じ、小さく息を吐く。
そして、静かな口調で切り出した。
「今日は、大事な話がある。」
『……はい。』
「以前から話を進めていた、伊吹との婚約についてだ。」
ほんのわずかな沈黙。
『はい。』
「結論から伝えよう。」
「この話は、私の判断で白紙に戻すことにした。」
宗一郎ははっきりと言い切った。
「これは伊吹の意思ではない。」
「私自身が考え直した結果だ。」
「これまで君には期待をさせるような形になってしまった。」
「本当に申し訳ない。」
書斎は静まり返る。
数秒の沈黙のあと。
受話器の向こうから返ってきたのは、穏やかな笑い声だった。
『……そうでしたか。』
『宗一郎様が熟考された末のご判断であれば、私は尊重いたします。』
宗一郎は少しだけ目を見開く。
『私も伊吹とは長い付き合いです。』
『彼女が幸せになってくれることが、一番ですから。』
『婚約という形がなくなったとしても。』
『私は、一人の男性として伊吹に想いを伝え、好きになってもらえるよう努めるだけです。』
『どうか、その機会だけはお許しください。』
その言葉に、宗一郎の表情が少し和らいだ。
「……ありがとう。」
「そう言ってもらえて救われた。」
『とんでもありません。』
『こちらこそ、お気遣いありがとうございます。』
「また改めて、きちんと挨拶へ伺わせてもらうよ。」
『はい。』
『楽しみにしております。』
通話が切れる。
宗一郎は静かにスマートフォンを机へ置いた。
「……すまなかったな、無我君。」
そう小さく呟き、窓の外へ視線を向ける。
一方、その頃。
千金楽家。
無我は静かにスマートフォンを机へ置いた。
部屋には誰もいない。
数秒間、微動だにしない。
そして――
バキッ!!
机の角が、無我の握り締めた拳で音を立てた。
「……ふざけるな。」
先ほどまで浮かべていた柔らかな笑みは、跡形もなく消えていた。
その瞳には冷たい怒りだけが宿っている。
「ここまで準備を進めておいて……。」
「今さら白紙だと?」
無我はゆっくりと立ち上がる。
怒鳴ることもない。
物を投げることもない。
だが、その静けさが、かえって異様だった。
コンコン――。
部屋の扉が叩かれる。
「入れ。」
一条が静かに部屋へ入る。
「総帥。」
「神白宗一郎からですか。」
「ああ。」
無我は窓の外を見つめたまま答えた。
「婚約は白紙だそうだ。」
一条はわずかに眉を動かした。
「……そうですか。」
無我は静かに笑う。
その笑みには、温かさなど一切なかった。
「予定を変更する。」
「これまでは、穏便に進めるつもりだった。」
「だが、その必要はなくなった。」
ゆっくりと振り返る。
「九十九会を動かす。」
「神白宗一郎には、自分が何を捨てたのか思い知らせてやろう。」
一条は静かに頭を下げた。
「承知しました。」
無我は窓に映る自分の姿を見つめ、小さく呟く。
「伊吹。」
「君はいずれ、必ず私のもとへ戻ってくる。」
「……その時には、自分の意思など関係なくね。」




