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神白を一人で帰らせることを不安に思った俺たちは、家まで送り届けることにした。
夕焼けに染まる住宅街を四人で歩く。
さっきまで危険に晒されていたとは思えないほど、辺りは静かだった。
しばらく無言の時間が続いた後、神白さんがぽつりと口を開く。
「今日は……本当にありがとうございました。」
「気にしなくていいよ。」
俺は前を向いたまま答える。
「でも、一つだけ聞いてもいい?」
「……はい。」
「どうして警察を呼ばなかったの?」
その問いに、神白さんの足がわずかに止まる。
少しだけ俯き、小さく息を吐いてから口を開いた。
「もし警察に事情を話せば、お父様にも必ず連絡が入ります。」
「そうなると?」
「きっと……学校を辞めさせられます。」
その言葉に、俺たち三人は思わず足を止めた。
「え?」
黄瀬が驚いたように声を漏らす。
神白さんは困ったように微笑んだ。
「ついこの間まで、私はセキュリティーの行き届いた御堂筋涼華女学院に通っていました。」
「あっ、それって政治家の娘とか、大企業のお嬢様が通うって有名な学校?」
黄瀬が思い出したように言う。
「はい。世間では、そのように言われています。」
静かに頷く神白さん。
「本来なら、そのまま高等部へ進学する予定でした。」
少し間を置き、彼女は照れくさそうに笑う。
「でも……どうしても共学に通ってみたかったんです。」
その言葉には、今日初めて見る熱が宿っていた。
これまでの上品で落ち着いた話し方とは違う。
心の奥から出た、本音だった。
俺は自然と尋ねていた。
「それは……どうして?」
神白さんは肩から掛けた鞄を開ける。
初めて会った時、大事そうに抱えていた茶色の紙袋を取り出した。
中から、一冊の漫画をそっと取り出す。
「皆さんにとっては、取るに足らない理由かもしれませんが……。」
そう言って胸の前に掲げる。
「これです。」
「漫画……?」
黄瀬が目を丸くする。
俺も思わず首を傾げた。
神白さんは少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「そう……ですよね。驚かれますよね。」
少し照れ笑いを浮かべながら、ゆっくりと話し始める。
「昔から漫画が大好きなんです。」
「両親に見つからないよう、こっそり隠れて読んでいました。」
優しく漫画の表紙を撫でる。
その仕草から、この一冊をどれだけ大切にしているのかが伝わってきた。
「漫画の中では、友達と一緒に笑って、くだらない話をして、一緒に帰って……。」
「文化祭や体育祭で騒いで、時には恋をして。」
「そんな、ごく普通の高校生活が描かれていました。」
少しだけ空を見上げる。
「それが、とても羨ましかったんです。」
「私も一度でいいから、主人公たちみたいな青春を送ってみたい。」
「そう思うようになりました。」
静かな声だった。
だけど、その言葉には今まで抑え続けてきた想いが詰まっていた。
「だから、お父様を何度も説得して……ようやく、この開路学園へ通わせてもらえることになったんです。」
(……そういうことだったのか。)
財閥のお嬢様だから特別な学校へ通っていたわけじゃない。
安全のためだった。
それでも彼女は、その安全よりも「普通の高校生活」を選んだ。
その覚悟は、想像していたよりずっと重かった。
「もちろん、以前の学校も嫌だったわけではありません。」
神白さんは穏やかに笑う。
「お友達もいましたし、お父様が私を大切に思ってくださっていることも分かっています。」
「ですが……。」
少しだけ拳を握る。
「一度しかない高校生活です。」
「どうしても、自由な校風の学校で過ごしてみたかったんです。」
その言葉を聞いて、黄瀬が優しく笑った。
「そっか。」
「神白さんの夢だったんだ。」
神白さんは少し驚いたように目を瞬かせる。
そして、ふっと笑みを浮かべた。
「夢……。」
「そうですね。」
「そう呼べるものだったのかもしれません。」
さっきまで強張っていた表情が、少しだけ柔らかくなる。
黄瀬は頭の後ろで手を組みながら笑った。
「でもさぁ、よくお父さん許してくれたね。」
確かに、その通りだ。
今日みたいな危険が起こる可能性を考えれば、反対されるのが普通だろう。
神白さんは少しだけ困ったように笑う。
「あ、それはお父様との交換条…。」
そこまで言った瞬間、神白さんの言葉がふっと途切れた。
「あ、いえ……」
小さく首を振る。
「なんでもありません」
笑ってごまかそうとするその顔が、ほんの少しだけ不自然だった。
(今のは……)
俺は一瞬だけ違和感を覚えた。
交換条件。
その言葉だけが、やけに引っかかる。
だがそれ以上は、無理に踏み込める空気ではなかった。
黄瀬が空気を軽くするように肩をすくめる。
「まーでもさ、結果オーライじゃん?」
「こうして普通の学校来れてるわけだし」
「普通って大事だよ?」
「……はい」
神白さんは小さく頷いた。
その横顔は、どこか嬉しそうで、それでも少し寂しそうだった。
しばらくして、住宅街の角を曲がると、大きな門が見えてきた。
重厚な鉄門。
その奥には、周囲の家とは明らかに違う敷地の広さが広がっている。
「……ここです」
神白さんが足を止めた。
「え、でか」
黄瀬が素直に呟く。
「普通にお城じゃん」
門の前には警備用と思われる監視カメラが複数設置されていた。
それを見て、さっきの“違和感”が少しだけ輪郭を持つ。
(やっぱり、普通じゃない)
神白さんは門の前で、ゆっくりと振り返った。
「今日は本当に……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「気をつけて帰ってください」
その言葉は丁寧なのに、どこか必死だった。
まるで――これ以上関わらせたくないとでも言うように。
「じゃあねー神白さん」
黄瀬が軽く手を振る。
「また明日ね」
俺も短く頷いた。
「うん。また明日」
その言葉に、神白さんの表情が一瞬だけ揺れた。
「……はい」
小さく答えたあと、彼女は門の中へと消えていく。
重い鉄門が静かに閉じる。
カチャン、と鍵の落ちる音がした。
その音を最後に、住宅街は再び静かになった。
「……すげぇとこ住んでんな」
黄瀬がポツリと呟く。
「お嬢様ってああいう感じか」
「いや、それだけじゃない気がするけどね」
俺はそう返しながら、門の方をもう一度見た。
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