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◇ ◇ ◇
一方その頃――。
都心に建つ超高層オフィスビル。
そのビル一棟すべてを、一つの巨大企業が所有している。
昼夜を問わず多くの社員が働く、日本有数の企業本社。
しかし。
その高層階には、一般社員ですら立ち入ることのできない区画が存在した。
ロゼは、その一室で夜景を眺めていた。
窓の向こうでは、無数の明かりが宝石のように街を彩っている。
「……楓。」
小さく呟いた、その時だった。
「――あら、ロゼちゃん。」
聞き慣れた声と共に、扉が静かに開く。
百鬼虹士郎が、不気味な笑みを浮かべながら部屋へ入ってくる。
「楓ちゃんは?」
ロゼは視線を外さないまま答えた。
「……さぁ。」
「バツが悪くなって。」
「家にでも帰ってるんじゃないかしら。」
百鬼は小さく笑う。
「ロゼちゃん。」
「嘘は嫌いよ。」
その一言で、部屋の空気が張り詰める。
ロゼはゆっくりと振り返った。
「……何が言いたいの?」
百鬼は楽しそうに笑みを深める。
「言い方を変えましょうか。」
「楓ちゃんは。」
「青嶌家へ逃げ込んだ。」
「私は、この目で見た。」
ロゼの表情が僅かに変わる。
百鬼はその反応を見逃さない。
「しかも。」
「黒鉄朝陽。」
「青嶌羽唯。」
「あの二人と一緒にね。」
「つまり。」
「楓ちゃんは。」
「組織を裏切った。」
「そういうことで間違いないわよね?」
沈黙。
ロゼは何も答えない。
百鬼はゆっくりと歩み寄る。
「ロゼちゃん。」
「あなたが庇いたい気持ちは分かる。」
「でも。」
「組織を裏切った者を匿うなら。」
「それは、あなたも同罪よ。」
百鬼の笑顔は変わらない。
それなのに。
部屋の温度だけが、一気に下がったような錯覚を覚えた。
百鬼は、楽しそうに肩を揺らした。
「裏切り者は。」
「粛清しなきゃね。」
「それが九十九会の掟でしょう?」
その言葉に。
ロゼの瞳から温度が消えた。
「……百鬼。」
「楓には。」
「猶予を与えただけよ。」
「自分の意思で戻ってくる可能性は、まだ残っている。」
百鬼は鼻で笑う。
「戻る?」
「青嶌家へ逃げ込んだ時点で。」
「もう答えは出てるじゃない。」
「あなたも分かってるでしょ?」
ロゼは静かに百鬼を見据えた。
「もし。」
「楓に手を出したら――。」
「その時は。」
「私が、あんたを殺すわ。」
部屋の空気が一瞬で凍り付く。
百鬼は目を細めると、嬉しそうに笑った。
「あははっ!」
「面白いじゃない!」
「やってみなさいよ!」
次の瞬間。
ギィン――。
百鬼の両手から、鋭い鉤爪がせり出す。
それを見たロゼも、腰から一本のナイフを静かに抜いた。
互いに一歩も譲らない。
百鬼が床を蹴る。
「ハァッ!」
鉤爪がロゼの喉元を狙う。
ロゼは半歩だけ身体を逸らし、ナイフで受け流した。
キィィン!!
火花が散る。
続けざまに百鬼の蹴りが飛ぶ。
ロゼは腕で受け止め、その勢いを利用して距離を取る。
「相変わらず。」
「しぶといわね。」
「あなたも。」
「昔より腕を上げたじゃない。」
二人の殺気が部屋を満たした、その時だった。
「そこまでだ。」
低く落ち着いた声が響く。
その一言だけで。
二人の動きが止まる。
部屋の入口には、一人の男が立っていた。
白髪が多く混じった黒髪。
年齢を感じさせながらも、一切の隙を見せない鋭い眼光。
整ったスーツを纏い、静かに二人を見据えている。
「……先生。」
ロゼが小さく呟く。
百鬼も不満そうに鉤爪を引っ込めた。
「もぉ。」
「あと少しだったのに。」
一条銀次は二人を一瞥すると、淡々と言い放つ。
「……何をしている。」
その声に感情はない。
だが、それ故に重かった。
「組織内部での抗争は禁じたはずだが。」
短い一言。
それだけで十分だった。
ロゼは静かにナイフを鞘へ戻す。
百鬼も両手の鉤爪を引っ込めると、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「ちょっとしたお遊びよ。」
「そんなにムキにならないでちょうだい。」
一条は百鬼を真っ直ぐ見据える。
「何か勘違いしているようだが。」
「九十九会の規律を乱す者は。」
「たとえお前であろうと。」
「私は容赦しない。」
百鬼の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
百鬼は露骨に顔をしかめると、小さくため息を吐いた。
「……わ、分かったわよ。」
「そんな怖い顔しないでちょうだい。」
一条は百鬼の軽口には一切反応を示さない。
「なら。」
「事の顛末を話せ。」
視線はロゼへ向けられる。
ロゼはわずかに目を伏せた。
「それは……。」
一条の鋭い眼光がロゼを射抜く。
「何か。」
「話せない理由でもあるのか?」
一瞬の沈黙。
その静寂を破ったのは百鬼だった。
「あら。」
「そんな回りくどい話、必要かしら。」
百鬼は楽しそうに笑いながら言い放つ。
「この子の可愛がっていた子が」
「神白側に寝返ったのよ。」
ロゼの表情が一変する。
「……百鬼。」
「あんた……。」
百鬼は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「だって。」
「本当のことでしょ?」
部屋に静寂が落ちる。
一条は百鬼を一瞥しただけで、すぐにロゼへ視線を戻した。
「ロゼ。」
「私は感情論を聞きたいわけではない。」
「知りたいのは事実だけだ。」
「楓は。」
「自ら組織を裏切ったのか。」
ロゼは数秒だけ目を閉じる。
「……はい。」
「現時点では。」
「そう判断するしかありません。」
百鬼は鼻で笑う。
「ほらね。」
「だから言ったじゃない。」
一条は百鬼の言葉を手で制した。
「裏切った理由は?」
「はっきりとは…。」
「分かっていることは」
「黒鉄朝陽。」
「青嶌羽唯。」
「現在あの二人と行動を共にしています。」
その名前を聞いた瞬間。
一条の表情が僅かに変わった。
「……黒鉄だと。」
ロゼはその反応に気付きながら答える。
「はい。」
「黒鉄朝陽という少年です。」
一条は数秒間、黙り込む。
そして静かに問い掛けた。
「その人物について。」
「何か分かっていることはあるか。」
「え……?」
ロゼは一瞬戸惑う。
「何でもいい。」
「分かっていることを報告しろ。」
「はい。」
「現在、開路学園一年生。」
「神白伊吹や青嶌羽唯と親しく――」
「違う。」
一条がロゼの言葉を遮る。
「私が聞いているのは出自だ。」
ロゼは一瞬だけ目を見開いた。
「……申し訳ございません。」
「確かな情報ではありませんが。」
「黒鉄朝陽は。」
「父は他界し、現在は母の夜宵、妹の夕奈と三人で暮らしているもよう」
「また、黒鉄流先代当主。」
「黒鉄天元のもとで修練を積んでいるようです。」
一条はしばらく黙ったまま、ロゼを見つめていた。
やがて。
ふっと口元を緩める。
「……そうか。」
「そうか、そうか。」
「奴の倅か。」
その呟きは、どこか懐かしさを含んでいた。
ロゼは思わず顔を上げる。
「……先生。」
「黒鉄朝陽をご存じなのですか?」
一条は答えない。
ただ小さく笑みを浮かべたまま、窓の外へ視線を移した。
「まさか。」
「こんな形で巡り巡ってくるとはな……。」
その言葉の意味を理解できる者は、この場には誰もいない。
百鬼だけが怪訝そうに眉をひそめた。
「何?」
「知り合い?」
「……いや。」
一条は静かに首を振る。
「独り言だ。」
そして話題を切り替えるようにロゼへ向き直る。
「楓の件だが。」
「当面はそのままにしておけ。」
ロゼは驚いたように目を見開く。
「……よろしいのですか?」
「構わん。」
「今、あの娘を追えば。」
「こちらが動いたことを相手に悟られる。」
「それに。」
「今はまだ。」
「泳がせておいた方が面白い。」
百鬼は不満そうに肩をすくめる。
「甘いわね。」
「裏切り者は、その場で始末するのが一番でしょう?」
一条は百鬼を一瞥する。
「焦る必要はない。」
「楓は必ず動く。」
「その時に回収すればいい。」
「……承知しました。」
ロゼは静かに頭を下げた。
その横で百鬼だけが、どこか納得のいかない表情を浮かべていた。




