19
「先生は。」
「スリをしたお姉さまを、その場で捕まえた。」
「でも。」
「怒りもしなかった。」
「殴りもしなかった。」
「ただ。」
『腹は減っているか。』
「そう聞いたらしいの。」
俺達は思わず顔を見合わせる。
「お姉さまは。」
「その意味が分からなくて。」
「何も答えられなかったって。」
小紫さんは少しだけ微笑む。
「先生は近くの屋台で。」
「温かいご飯を買って。」
「お姉さまに渡した。」
『食え。』
『先生はね。』
『ただ、静かに私を見て言ったの。』
――力の無い者は、奪われる。
――甘い者は、踏みにじられる。
――そして、そのまま誰にも知られず消えていく。
『それが、この世界の現実だ。』
『綺麗事だけでは、生き残れない。』
『だからと言って。』
『俺がお前に示す道が、正しいとは限らない。』
『だが。』
『このまま路上で朽ち果てるよりは、生きられる可能性はある。』
『選ぶのは、お前だ。』
『ついて来るか。』
『それとも、この場所で死ぬまで足掻くか。』
「……お姉さまは。」
「先生の言葉を聞いて。」
「何も返せなかった。」
「でも。」
「その背中について行った。」
「それが。」
「お姉さまと先生の始まりだったって。」
小紫さんは小さく微笑みながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「だから……。」
「その時のお姉さまには。」
「昔の自分と、私が重なって見えたんだと思う。」
「親に捨てられて。」
「行く場所もなくて。」
「誰にも必要とされない子どもだった私を。」
「昔のお姉さま自身と重ねていたんじゃないかなって。」
「……それが。」
「お姉さまが私を育ててくれた理由だと、私は思ってる。」
小紫さんはそう言うと、どこか寂しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ても。
俺たちは、誰一人として言葉を返すことができなかった。
ロゼさんが歩んできた人生。
小紫さんが歩んできた人生。
その二人の背負ってきたものは、あまりにも重すぎた。
俺たちが生きてきた世界とは、何もかもが違う。
簡単な慰めなんて、きっと届かない。
励ましの言葉だって、あまりにも軽く感じてしまう。
だから俺たちは。
どう声を掛ければいいのか分からず、ただ静かに小紫さんを見つめることしかできなかった。
重苦しい沈黙が、公園を包む。
誰も言葉を見つけられなかった。
俺は何度も口を開こうとしては閉じる。
励まそうとしても。
どんな言葉も薄っぺらく思えてしまう。
それでも――。
俺は、伝えなきゃいけないと思った。
「……小紫さん。」
俺はゆっくりと顔を上げる。
「俺。」
「やっぱり。」
「ロゼさんのことを悪い人だとは思えない。」
小紫さんの肩が小さく震えた。
「もちろん。」
「九十九会がやってることは許せない。」
「人を傷つけて。」
「利用して。」
「そんなことは間違ってる。」
「でも。」
「少なくとも。」
「ロゼさんが小紫さんを大切に思ってることだけは。」
「今日の話を聞いて、ちゃんと伝わった。」
「だから。」
「いつか。」
「ロゼさんも。」
「小紫さんと同じように。」
「笑って生きられる日が来ればいいなって。」
その瞬間。
小紫さんの瞳が大きく揺れた。
「……え。」
まるで。
そんなことを言われるなんて思ってもいなかったというように。
驚いた表情で、俺を見つめていた。
「……黒鉄君は、本当に変わってる。」
小紫さんは少しだけ困ったように笑った。
「普通。」
「九十九会の話を聞いたら。」
「怖がるか。」
「嫌うか。」
「そのどっちかなのに。」
俺は頭をかく。
「そうかな。」
「俺は。」
「その人が何をしてきたかも大事だけど。」
「その人が何を思ってたかも知りたいだけ。」
「知らないまま決めつけるのは。」
「何か違う気がするから。」
「……。」
小紫さんは目を丸くしたあと、小さく吹き出した。
「やっぱり。」
「変わってる。」
その様子を見ていた青嶌さんが、くすっと笑う。
「うん。」
「黒鉄君はそういう人。」
「考えるより先に、人を信じちゃう。」
「危なっかしいくらいにね。」
「えぇ……。」
思わず情けない声が漏れる。
「褒められてるの、それ。」
青嶌さんは肩をすくめながら笑った。
「半分は。」
「もう半分は心配してる。」
「ほっとくとすぐ無茶するでしょ?」
「……否定できないかも。」
俺が苦笑すると。
小紫さんは声を漏らして笑った。
その笑顔は。
今日初めて見る、本当に肩の力が抜けた笑顔だった。
その笑顔を見て。
俺も。
青嶌さんも。
ようやく少しだけ、胸のつかえが下りた気がした。
そして小紫さんは笑顔を浮かべたまま、ふと申し訳なさそうに俯いた。
「……ごめんなさい。」
「私が知っていることは。」
「もう、あまり多くないの。」
「それでも。」
「九十九会の幹部の名前くらいなら分かるわ。」
「一人は。」
「お姉様。」
「あとは…。」
「百鬼虹士郎。」
その名前が口にされた瞬間だった。
「……っ!」
俺と青嶌さんは、ほぼ同時に息を呑んだ。
「百鬼……。」
思わず漏れた俺の声に、小紫さんが不思議そうに顔を上げる。
「……知ってるの?」
俺は青嶌さんと目を合わせる。
あの日。
御影グループで香取さんを殺害したとされる男。
俺たちが疑っていた人物。
その名が、今ここで小紫さんの口から語られた。
偶然とは思えなかった。
公園の空気が、一気に張り詰める。
俺はゆっくりと小紫さんへ向き直った。
「小紫さん。」
「その百鬼って……。」
「どんな人なんだ?」
小紫さんは俺たちの表情を見て、静かに頷いた。




