第9話 止める札
衣装室の扉が、背後で閉まった。
廊下に残っているのは、絹の衣擦れの残響だけだ。
レティシアは一歩も動いていない。扉の前に立ったまま、象牙色の布が別の肩へ流れていく瞬間を、まだ視界の端に引きずっている。
あれは抽象的な何かではなかった。
縫い目の位置を知っていた。銀糸の密度を知っていた。胸元の刺繍が、どの順番で針を入れて仕上げられたかを、針子頭が説明するのを聞いていた。その声まで覚えている。針の運びと、布の緊張と、完成したときの小さな吐息まで。
それが別の身体に合わせて整えられていた。
「証拠では足りないわ」
声に出すつもりはなかった。ただ廊下に言葉が落ちて、石に吸われた。
アシュベルは壁際に立ったまま、こちらを見ている。
「旧神託庫でも、衣装室でも」とレティシアは続けた。「見つけたものは後から整え直される。青い滲みがそうだったように。帳面がそうだったように」
「はい」
「だから次は探すのではなく、流れそのものを止めなければならない」
アシュベルは頷かなかった。一拍おいてから、「どこへ向かうつもりですか」と言った。
「あなたが知っているはずの場所へ」
彼の目が少し変わる。「第二書庫ですか」
「婚礼は書類だけでは動かない。衣装も、花も、侍女の配置も、誰かが管理している。その管理の元になる場所が必ずある。私が一度も目を向けなかった場所が」
アシュベルは壁から離れ、先に立って歩き始めた。
*
三つ目の角を曲がったところで、廊下が変わった。
大理石の継ぎ目が消え、荒い石積みが現れる。灯りは青く弱く、油の減った芯が細い光しか出していない。天井が一段低くなり、足音の響き方が変わる。自分の歩く音が、こもって返ってくる。
古い案内札が壁に貼ってある。ほどけかけた文字で、向こう側の場所名が書かれている。字が崩れて読めない部分がある。貼り直された形跡はない。
つまり、ここへ来る必要のあった人間が、ある時期から来なくなった。
使われなくなった奉納口の脇を抜ける。湿った石のにおいがした。足元の石が不均一で、踏むたびに微妙に角度が変わる。
「レティシア様」
アシュベルの声が、すぐそこで聞こえた。
気づくと、歩みが止まっていた。石壁を見ていた。見ているつもりで、実際には何も見ていなかった。壁の石の、目地の模様だけがぼんやりと目の前にある。どのくらいそうしていたかわからない。
「問題ありません」
「足を動かせますか」
レティシアは視線を壁から外した。アシュベルがこちらへ一歩戻ってきている。踏み出すべき次の石を、目で示している。
一歩を踏む。床が確かに押し返してくる。それを確かめてから、もう一歩。
「名を呼ばれると」とレティシアは言った。
アシュベルは振り返らなかった。「気が散りますか」
「戻る気がします。自分がどこにいるか、わかる気がします」
沈黙。
それきり、彼は何も言わなかった。ただ前を向いて、歩き続けた。
扉は小さく、鉄の把手が錆びている。
アシュベルが押すと低い音がして、内側へ開いた。灯りは持ち込んでいない。奥の細い窓から、外の白さが薄く差している。目が慣れるまで、輪郭だけが見える。
棚が並んでいた。
書庫とは違う。書物も印も、照合のための台帳もない。並んでいるのは木札と、紙を束ねた控えと、布の仕切りで区切られた小さな木箱だ。
レティシアは棚の前に立った。一番手前の木札を取る。
——花嫁前室接続、第三鐘前。
花嫁を前室へ通す順番と時刻を定める札だ。これが差し台の溝に収まって初めて、名呼びが始まる。手の中で、木の重みがある。軽くも重くもない、日用品の重みだ。これが婚礼を支えているとは、見た目にはわからない。
——侍女配置控え、右列二番から。
その下。
——花受渡し順、向きと角度。
さらに奥に、立て掛けて並んだ細い木の板。
——名呼び後、立ち位置。
隅の棚に、まとめて紐で縛られた束がある。表紙に墨で書かれている。
——引渡し後整理対象の控え。
レティシアは棚の前で動かなかった。
婚礼は神殿が宣告するものだと思っていた。神託があり、名が読まれ、式が行われると。だからずっと、奪われた婚約を取り戻すことを考えていた。名を読まれる場所へ戻ることを考えていた。
違う。
先に接続される者がいる。先に配置される者がいる。先に名を呼ばれる者がいる。
この棚にある一枚一枚が、その三つを決めている。神託が先に真実を決めているのではない。誰かが先にこの札を動かすことで、真実が後から作られている。
「これが婚礼を婚礼にしているもの・・・」
アシュベルは何も言わない。
棚の奥に手を伸ばした。古い木箱の蓋が固く、引いても動かない。両手で引いたら、乾いた軋みとともに開いた。
中に、二枚の札がある。
一枚は古い。木の色が変わっている。文字の墨が、端から滲んで崩れている。長い時間、ここへ置かれていた。使われるはずだったまま、奥へ押し込まれていた。
——前室接続、レティシア・ヴァンベルク。
もう一枚は新しい。木が白く、墨も乾いたばかりの黒さだ。誰かが最近ここへ入り、この箱を開け、古い札の上に重ねて置いた。
——前室接続、フィオナ・ベルマー。
二枚の重みは変わらない。どちらも同じ木でできている。どちらも同じ箱に収まっていた。
レティシアは二枚を並べて持ち、しばらく見ていた。
婚約を奪われたのではない。書類を書き換えられたのでも、神託に負けたのでもない。
この箱の中で、二枚が入れ替わっていた。それだけのことが、朝を丸ごと別の人間へ渡していた。
レティシアは古い札を取り出した。
両手で持ち、木の感触を指で確かめる。端が少し欠けている。長く置かれていたせいか、木の表面が粗くなっている。指の腹で撫でると、繊維が引っかかる。
「引き抜きます」
アシュベルが初めて振り返った。光の薄い場所で、その目の色が読めない。
「外で何かが起きます」
「わかっています」
「放せば戻されます」
「放しません」
彼はそれ以上言わなかった。
レティシアは箱から完全に抜き取った。もう一枚——フィオナの札——は箱の中に残す。重ねて置かれていたものを、元の順番へ戻しただけだ。
扉の向こうで、音が変わった。廊下を急ぐ足音。複数。
「前室の一致が取れない」という声が届く。間を置かず「接続札が消えた」「花嫁側が空いた」「確認を急げ」と声が重なり、遠ざかっていく。足音が分散し、別々の方向へ散っていく。
アシュベルが扉の傍へ移り、外の音を聞いている。
「乱れました」
「当然ですわ」
「このまま前室へ向かいますか」
レティシアは答える前に一度、手の中の札を見た。古い木の、変色した表面。自分の名が、墨の滲みとともに残っている。
「ええ」
アシュベルは扉を開けた。先に出て、左右を確かめてから、こちらへ顎を向ける。
廊下に出ると、急ぐ人影が交差している。誰もこちらを見ていない。全員が接続の確認へ走っている。整然とした婚礼の流れが、一枚の札を失っただけで、これほど崩れる。
レティシアはその流れと逆の方角へ歩き始めた。
「今度は、呼ばれるのを待たない」
足音が、石を踏む。一歩ずつ、確かに。
花嫁前室は、この廊下の先にある。




