第10話 花嫁前室
廊下の空気が変わる場所がある。
石の継ぎ目が細くなり、床の色が一段明るくなる。壁に沿って白布が掛けられ、灯りの数が増え、香の煙が薄く漂う。足を踏み入れると、肌の感触まで違う。
花嫁前室へ続く区画だ。婚儀の朝、花嫁ひとりを迎え、式へ送り出すまでの間だけ使われる。その時間だけ、他の誰も立ち入ることを許されない場所。
レティシアはその変わり目を踏んだ。歩みは止めない。祝福の場所へ向かう足取りではなく、札を両手で握ったまま、流れの逆を行く。
廊下に人が増える。
女官、侍女、補佐役。それぞれが別の方向へ急ぎ、声が飛び交っているが、整った指示ではない。噛み合わない焦りが積み重なって、廊下全体がどこかひとつ、ずれている。
「確認が合いません」
「前へ通せば整えられます」
「名呼びは遅らせられません、第三鐘の婚儀開始までに」
誰もこちらを見ない。全員が崩れかけた流れを元へ戻すことだけに向いている。
アシュベルが半歩後ろについてくる。人波の切れ目を選びながら、声は出さない。ただ近くにいる。レティシアの歩みが鈍るたびに、気配が近くなる。
前室の手前に、女官長格の女が立っていた。
四十を過ぎたころの顔立ちで、姿勢がよく、手を前で組んでいる。補佐が耳元で何かを告げるたびに、小さく首を振る。決断ではなく、拒絶の動きだ。問題を前へ送ることを、何度も断っている。
レティシアと目が合った。
一瞬だけ、表情が止まる。それから補佐の方へ向き直し、「再確認を。前へ通す前に一致を取れ」と言った。
それだけだ。こちらへは何も言わなかった。
補佐が走り、別の補佐が来て、また走る。誰が本当かを問う者はいない。形が揃うかどうかだけを、全員が見ている。
前室の扉は、端に指が入るほど開いていた。
レティシアは立ち止まり、隙間から中を見た。花嫁がここを出るとき、すでに式は始まっている。
差し台。
呼び順控えが広げられた台。
立ち位置を示す細い線が床に引かれ、ヴェールを掛ける高さに調整された架けが一つ。
花の受取位置を示す印が足元に。
侍女の待機場所が、扉の左右に均等に割り振られている。
余分なものがない。
一人の人間をここへ入れ、花嫁として通れる身体へ整えるためだけに設計された部屋。入る前に正しくなるのではない。この部屋を通ることで正しくなる。
扉の向こうで、若い侍女がヴェールを持ち上げたまま立っていた。
その侍女が、無意識に半歩動いた。
扉の隙間の方へ。こちらへ。身体が何かを感知して、先に動いた。
すぐ上の女官が手を出して止める。侍女は我に返ったように顔を上げ、元の位置へ戻った。
「レティシア様」
アシュベルの声が耳のすぐそばで聞こえた。
視線を扉から外す。彼が差し台を顎で示している。名呼びが始まれば、流れは再び動き出す。止めるなら今だと、その目が言っている。
レティシアは扉へ手を掛けた。
押した。
思ったより重かった。両手で押して、ようやく開く。
室内の全員がこちらを向いた。声はない。手を止めたまま、全員が立っている。
レティシアは歩いた。
「お待ちください」という声が背後で上がり、誰かが前へ出ようとする気配がある。足を止めなかった。
台の前に立つ。
呼び順控えが広げられたままになっている。先頭の名を、目が拾う。
——フィオナ・ベルマー。
婚儀の進行を管理する台がある。そこへ名の書かれた札を差し込むことで、誰が花嫁前室へ入るかが決まる仕組みだ。レティシアは握っていた札を、その溝へ押し込んだ。
乾いた音。
指を開かなかった。台の縁を握ったまま、一拍、二拍、立っている。それからゆっくりと手を引いた。
札は溝に収まったまま、動かない。
女官長格が入ってきた。差し台を見て、レティシアを見て、口を開きかけ、閉じた。
「接続の一致が取れません」と補佐が言った。上擦った声だった。
「取れなくて当然です」レティシアは振り返らなかった。「私の前室接続札を、誰かが勝手に箱の奥へ押し込んでいたのですから」
誰も答えなかった。
補佐が書記を見る。書記が呼び順控えを見る。女官長格が一歩前へ出て、止まった。部屋の中が、次の一手を失っている。
レティシアはその沈黙の中で、台の縁から指を離した。指先が、少し震えていた。
扉が開いた。
香の煙が揺れ、侍女たちの姿勢が微かに揃い直す。
レティシアは顔を上げた。
象牙色。
胸元の銀糸が灯りを受けて光っている。その刺繍を、レティシアは知っていた。どこで針が止まり、どこで布が緊張し、仕上がったとき針子頭が小さく息を吐いたことも。何度も仮縫いをした。何度も布を当てられた。その度に、これが自分の未来の形だと思っていた。
その衣装が、別の肩の上にある。
裾の広がりが違う。腰の位置が違う。それでも収まっていた。誰かが手を入れて、そこへ馴染ませていた。
目を逸らせなかった。
自分のために作られた布が別の身体の上で揺れているのを見ながら、台の縁へもう一度手が伸びる。何かを掴もうとしたわけではない。ただ手が、そこへ行った。指先が木の縁に触れて、止まった。
「……私は」
フィオナの声が聞こえた。
低く、静かな声。怒りでも詰問でもなく、自分でその言葉の続きを探しているような、途中の声だった。
「選ばれたと、聞かされていました」一拍あった。「皆が、そう言いました。私だけが違うとは、言えなかった」
レティシアは台の縁から手を離した。
フィオナの目が、こちらへ向いている。敵意ではなかった。整えられた衣装の下から、もっと別の場所から来ている目だった。差し台を見て、二枚の札を見て、最後にレティシアを見ている。自分がここへ連れてこられた経緯を、今初めて誰かと一緒に見ようとしているような目だった。
レティシアはその目を見た。見て、差し台へ向き直した。
フィオナへ向ける言葉が見つからなかった。責める言葉も、庇う言葉も、どちらも持っていない。自分の衣装を纏ったその人へ向けるべき言葉が、この部屋のどこにもなかった。
「形だけ整えれば通せると思わないで」
声は低く、部屋の底へ沈んでいった。
扉の向こうで廊下の足音が乱れている。前室が動かないことに気づいた補佐たちが、走り始めている。アシュベルが扉の傍に立ったまま、声を出さない。
差し台の上の古い札が、灯りを受けて、木目を見せている。




