第11話 正しい花嫁が二人いる朝
差し台の前で、すべてが止まった。名の札を差し込む溝が、レティシアの手の下にある。
「形だけ整えれば通せると思わないで」
言葉は部屋の底へ沈んでいった。誰も動かなかった。
フィオナは象牙色のままそこに立っていた。衣装の胸元で銀糸が灯りを受けている。その刺繍をレティシアは知っていた。針が止まった場所も、布が緊張した場所も。それが今、別の肩の上にある。
フィオナの目が差し台へ落ちた。古い札と新しい札、二枚が並んで溝に収まっている。その目が、ゆっくりとレティシアへ戻ってくる。向けるべき言葉が、まだ見つからなかった。
補佐が口を開いた。「名呼びを先行させます。流れを取り戻す」
名呼び役が台本を持ち直す。呼吸を整えて、息を吸う。
「王太子殿下の花嫁を――」
声が廊下へ出た。「レティシア・ヴァ――」
止まった。名呼び役が台本から目を上げ、補佐の方を見る。
「現行で呼べ」
命令だった。叱責ではなく、命令だった。名呼び役が台本へ戻る。指が行を探して、紙の端で滑る。もう一度、呼吸を整える。
「フィオナ・ベルマー様を――」
前室の扉は、開かなかった。
女官が取っ手へ走る。引く。金具が鳴る。もう一度引く。扉は石の壁と同じ重さで、そこに立ったままだ。「接続が合いません」「差し台の溝が一致していない」「名の照合が取れていない」声が重なる。全員が差し台を見る。溝に収まった二枚の札を見る。誰もそれを引き抜こうとしなかった。
レティシアは台の縁から手を離さなかった。この人たちは、誰が正しいかを見ていない。形が通るかだけを見ている。だから形が通らないとき、誰も次を知らない。
補佐が手順書を開く。紙のめくれる音が廊下に立ち、女官たちが囁き声で何かを確認し、名呼び役は台本を胸に抱えたまま、ただ立っている。
後ろでアシュベルが動く気配がした。半歩、近く。それだけで止まる。レティシアの背が動こうとしているのを見て、引き留めることを選ばなかった。引き留めれば補佐が照合を求め、流れを握るのは補佐になる。だから動かない。動かないまま、ただそこにいる。
レティシアは扉を見た。向こうから迎え役たちの靴音が届く。整列したまま合図を待ち、静かに並んでいる。台の縁から指を離す前に、一度だけ手を見た。赤くなっていた。握っていた時間の跡だった。それを見て、何かが決まった。言葉ではなく、指先が先に知っていた。
取っ手を掴み、体重を乗せる。重い。押し込んだ分だけ開いていく。光が差し込んでくる。ヴェールのない髪のまま、外へ出た。
光が正面から当たった。目を細めるより先に、ヒールの底が石畳の継ぎ目を踏む。冷たさが足の裏から上がってくる。今ここに立っている。それだけの事実が、身体の底に収まっていく。
迎え役の列。正装の人間たちが、廊下に整然と並んでいる。先頭の迎え役が、開いた扉の角度を見た。光の入り方を見た。出てきた人間の足の出し方を見た。裾の流れを、目で追った。息を吸う音が、ひとつ。
「王太子殿下の花嫁、レティシア様をお迎えいたします」
廊下に口上が響く。後ろで女官が息を飲む。補佐が「止めろ」と言う声が上がる。裾持ち役が半歩、レティシア側へ動いていた。本人は気づいていない。膝が裾の流れに向かって先に動いていた。気づいて、止まる。止まったまま、元の場所へも戻れずに立っている。
後ろから、フィオナが出てきた。侍女が両脇につき、象牙色のドレスが光の中に現れる。ヴェールが風をはらんで、流れる。迎え役の列が揺れる。先頭が口を開こうとして、閉じる。次の人間が上の人間の顔を見る。口上が、出なかった。
フィオナは前を向いたまま進んだ。一歩、二歩。列の前まで来て、止まる。迎え役たちの目が、どこへも定まらない。フィオナの指先が、ドレスの脇縫いをそっと探っていた。握る場所を探すように、布の端を指でたどっている。ヴェールの下で、唇が一度だけ動いた。言葉にはならなかった。
「では私は」
声が低く出た。廊下の石の壁に、静かに反響する。
「何なのです」
フィオナはレティシアを見ていなかった。女官を見ていなかった。補佐を見ていなかった。
廊下の先を見ていた。整えられた迎え役の列を見ていた。誰も答えを返せないまま立っている人間たちを、見ていた。
問いは、誰にも向かわなかった。この廊下に張り巡らされた手順へ、投げられた。
光だけが、静かに廊下を渡っていく。前室の扉は、まだ開いたままだ。迎え役の口上が、廊下の石の中に残っている。次の名呼びが宙に浮いたまま、誰もそれを呼ばない。




