第12話 現行の外へ
差し台の溝には、まだレティシアの札が入っている。フィオナの問いが廊下の石の中に消える前に、廊下の奥から足音が来た。迎え役の列が、声をかけられる前に左右へ割れた。
補佐が先頭に立っていた。後ろに女官長格の二人を連れ、足運びに迷いがない。レティシアはその制服の縁取りを見た。上位神殿の規格だった。
「場を閉じます」
補佐の声が廊下の端まで届く。扉の取っ手に女官の手が伸び、開いたままだった前室の扉が引かれていく。光が細くなり、一呼吸で消えた。「記録を止めます。確認を先に行います。先ほどの発声はなかったものとし、今の通りに書け」
女官長格が手を上げ、帳面係を呼ぶ。廊下の端から青年が走ってきた。鷲羽ペンを取り出し、手の甲でひとなでしてインクを落とす。紙面へ向かおうとして、止まった。補佐が口を開くより先に止まっていた。ペンの先にインクが溜まり、重さを増している。
迎え役の列は左右に割れたまま動かない。裾持ち役が待機の位置へ戻り、侍女がフィオナのヴェールを整えた。象牙色のドレスが灯架の炎を受けて橙を帯びている。フィオナは廊下の中ほどに立ったまま、ドレスの脇縫いを両手でたどっていた。握る場所を探すように、指が布の端を行き来する。ヴェールの下で唇が一度だけ動いたが、声にはならなかった。
レティシアは差し台の縁から手を離した。指の跡が掌に残っている。迎え役の先頭を見た。視線が合う前に、補佐が口を開こうとした。それより先に言った。
「先ほどの言葉を、もう一度」
「それはお受けできません――」と補佐が言いかけた。それより先に続けた。「起きたことは起きています。あなたが呼んだ名を、もう一度言ってください」
迎え役の先頭が補佐の顔を見た。補佐が首を振った。迎え役が目を台本へ落とした。胸に抱えたまま開く気配もなく、ただ俯いている。沈黙が来た。一拍、二拍。
迎え役が息を吸った。
「王太子殿下の花嫁」
声が出た。止められなかった。
「レティシア様を、お迎えいたします」
補佐の「止めろ」が一拍遅れた。声が廊下の石に響いてから、命令が来た。言葉はもう外にある。迎え役は頭を下げていた。下げた形のまま、ゆっくりと上げた。目が少し潤んでいる。台本を胸へ引き戻し、元の位置へ戻った。
廊下の石の中に、口上がある。誰も取り消せない。
手が、小さく震えていた。気づいたのは、握り直してからだった。
アシュベルが帳面係の横へ来た。低く言った。「消す前の形がいちばん証になる」青年がペンを持ち直す。紙面へ向かう。女官長格が「書くな」と手を伸ばしかける。青年はペンを止めなかった。細い筆圧で書いた。「王太子殿下の花嫁、レティシア様御入室。口上、済み」。女官長格の手が帳面の上に来た。青年はペンを置いた。「書き直せ。今の通りに書け」と補佐が言った。青年が次のページを開こうとしたその間に、アシュベルが帳面の端を掴んで一葉を引いた。紙が綴じから離れる音が、静かにした。青年は視線を上げたが、止めなかった。
フィオナが一歩前へ出た。
補佐の注意がそちらへ向く。迎え役の列が息を止めたように静止する。フィオナはレティシアを見た。向けるべき言葉を探すような間があって、口を開いた。「私は、選ばれたと聞いていました」静かな声だった。弱くはなかった。「神官様が来て、準備をしなさいと言われました。侍女が来て、衣装が届いて、日取りが決まりました。私が決めたわけではありません」補佐が「当該者の発言は記録しない」と言った。フィオナは続けた。
「どなたかが、私をここへ置いたのです」
レティシアはフィオナを見たまま、次の言葉を探した。出てこなかった。この人は敵ではない。だからといって、札を引くわけにもいかない。手が差し台の縁へ戻ろうとして、止まった。
フィオナの目が廊下の奥へ向いた。整列した迎え役の列、差し台の溝、女官の配置、帳面。その全体を、ゆっくりとなぞった。誰も答えなかった。手順に、答える欄がない。
侍女が両脇から寄り、フィオナの腕を取った。「前室へお戻りを」と言いながら引く。フィオナの足が従う。一歩、二歩。
ただ一度だけ、半歩分だけ遅れた。
振り返らなかった。振り返る代わりに、引かれながら差し台の方を見た。溝に収まった二枚の札を、最後まで目で追っていた。象牙色が廊下の角を曲がり、消えた。
補佐が封を取り出した。手のひらほどの大きさで、金箔の縁取りがある。上位神殿の紋が押されていた。「上位照合室の判断により」読み上げが始まった。「再固定前隔離を適用します。正式な照合の前に、対象者を別室へ移す手順です。旧い名で呼ばれる者との、接触を以後禁止。処置は北側内階段より執行」
補佐の声が続いているあいだ、レティシアは自分の足を見ていた。石畳の継ぎ目。ヒールの先が、そこで止まっている。読み上げが終わるまで、ただそこに立っていた。
廊下の端で、侍女の一人がレティシアの方を向いた。白い顔で、「いま……どなたが」と言いかけた。次が来ない。「どなたが」のまま、そこに立っていた。炎が揺れた。廊下の石の線が、わずかにずれた感覚があった。足の裏から床の冷たさが薄くなる。灯架の縁が、にじんだ。
「レティシア」
低く、静かだった。ただ名前だけ、置くように言った。
石の線が収まった。足の裏に冷たさが戻る。侍女の輪郭が元の形に見えた。補佐が手順書を開き、次の頁を探した。指が紙の上を走る。
レティシアは封を見ていた。金箔の縁取り、上位神殿の紋。この先に何があるかは、もう分かっていた。分かっていて、足が動かなかった。一拍、止まる。
それでも口が開いた。
「元へ戻していただくのを待つつもりはありません」
指が止まった。
「その手順ごと、見せていただきますわ」
補佐は答えなかった。手順書を閉じた。視線がレティシアの顔から外れ、廊下の奥へ向いた。北側内階段への通路だった。アシュベルの手の中に、帳面の一葉がある。「レティシア様御入室」の一行が書かれた紙。補佐はそれを見ていた。動かなかった。
補佐が先に歩き始めた。
レティシアはアシュベルと共に続いた。廊下に、あの声がまだある。石の中に残っている。誰も上書きしていない。




