第13話 名前のない扉の前で
廊下の石の継ぎ目が変わった。
婚儀の側には白布が張られ、花の差し台が一定の間隔で並んでいる。香が低い台で焚かれていた。補佐の後に続いて角を曲がるたびに、それが一つずつ消えていく。白布が引かれ、花の台が端へ寄り、香の気配が壁の石に吸われていく。
増えるのは音だ。遠くで札が触れ合う音がする。紙がめくられ、扉が閉まる。祝典の音ではない。手順が動く音だった。
レティシアは壁を見た。松明の間隔が広くなっている。灯りと灯りの間に、届かない場所が増えていた。廊下を歩く人間は自分たちだけではないのに、足音は自分たちのものしか耳に来ない。
女官長格が廊下の手前で補佐に何かを告げ、角を先に曲がった。先回りしている。
アシュベルがレティシアの一歩後ろを歩いていた。帳面の一葉をまだ手に持ち、紙の端が少し折れている。気がついていないのか、直さない。
「寒くありませんか」
低い声だった。問いの形だったが、答えを求めているのではなかった。
「問題ありません」
問題ない、と言いながら、足の裏が冷えていた。廊下の石が、いつから変わったのか分からない。
漆喰が途切れ、石積みの灰色が続き始める。足音が変わった。祝典の側では吸われていた音が、ここでは返ってくる。廊下の角で、すれ違った女官がレティシアの服に目を止めた。儀礼服のままだった。今いる場所には、この色が来るはずがない。女官は一拍だけ止まり、次の動作へ移った。
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扉の手前で補佐が止まった。
「対象、待機」
廊下の石に当たり、言葉が戻ってくる。対象。レティシアは一呼吸遅れて、それが自分への呼称だと理解した。名ではなかった。
扉の両脇に物が並んでいる。まず木箱。蓋に整理番号の紙が貼られ、「預り箱」と墨で書かれている。装束を収める器だ。その隣に、灰色の外衣が畳まれていた。縁に刺繍はなく、留め具もない。誰にでも着られる形だった。
鏡が一枚、白布を被せられて壁に立てかけられている。枠の縁だけが出ていた。小さな台の上に、木の札が一枚。何も書かれていない。名を書き込む場所だが、まだ空白のままだった。
扉の右脇に赤い紙が貼られている。「現在の記録にない者との接触を、以後禁ずる」と書かれ、その下に細かい条件が続く。
罰の形をしていない。罰なら、理由がいる。ここには確認がなく、ただ手順だけがある。馴染ませる前の、前処理だ。
補佐が書類を開いた。「正式な確認の前に、対象を別室へ移す手順に従い、処置を開始します」と読み上げる。帳面係が廊下の端から走ってきて、ペンを持って立った。
アシュベルが補佐の手元を見た。「手順書を確認させてください」と言い、答えを待たずに手を伸ばした。強引ではなかった。ただ手が先にある。補佐は止めなかった。
手順書の一枚を広げた。レティシアも横から読む。その名で呼ぶことの禁止。装束回収。旧名の痕跡をすべて除くこと。旧位置への接近禁止。正式確認前、接触対象の隔離。末尾まで来て、もう一度上から読んだ。名前を禁じる前に確かめる欄が、どこにもない。当人の証言を聞く場所も、ない。
アシュベルが手順書を補佐へ戻した。「この手順書には」静かに言う。「確かめる欄がありません」
補佐は前を向いたままだった。
「名前を禁じる前に、あなたが何者であるかを確かめる手順がない。当人の言葉を聞く場所もない。ただ、手順通り進む仕組みだけがある」
「手順に従って進めます」
「その手順が」アシュベルは続けた。「どちらへ向いているかは、今の紙で分かります」
女官長格が補佐を見た。補佐は手順書を閉じた。
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レティシアは空欄の木の札を見ていた。ここへ移され、灰色の外衣を着せられ、鏡を白布で覆われ、名を呼ぶ人間を遠ざけられて、確認を待つ。その確認には、確かめる欄がない。待つ間に、何かが決まる。
台へ歩いた。女官長格が半歩前に出たが、補佐が手を上げて制した。卓の隅に紙と筆が置かれていた。筆を取り、硯の墨へ穂先を当て、一度なでて整える。木の札を台から取り上げた。軽い。白い面が手の中にある。まだ何も刻まれていない。
ゆっくりと書いた。縦に、一字ずつ。
レティシア。
台へ戻した。補佐が見ていた。女官長格が見ていた。廊下の奥から来た帳面係の青年が、立ったまま見ている。アシュベルも見ていた。止める声は来なかった。
花嫁位を取り返すためではない。私は私の名で呼ばれる、という保持だ。それだけのことだった。台の上に、「レティシア」と書かれた木の札がある。
「名の読み上げ禁止は」女官長格が言った。「北側内階段、第三番扉前にて行います。対象は移動を」
レティシアはアシュベルを見た。すでにこちらを向いていた。帳面の一葉をまだ持ち、紙の端の折れはそのままだった。「レティシア」と低く言う。名前だけだった。
「行きます」
先に足を出した。
補佐が先導し、廊下をさらに北へ折れる。壁が変わった。白の漆喰が終わり、石積みの灰色だけになる。足音が一段低くなり、天井が近い。香も花の台もなく、松明と石と手順の音だけが続いた。侍女の気配が消えた。女官たちも姿が見えなくなり、補佐と女官長格だけが残っている。
補佐が止まった。扉の前だった。木の扉は古く、蝶番の金具が黒く変色している。扉の脇の壁に、小さな台が据えられていた。縦に溝が並び、名の書かれた札を差し込む仕組みになっている。差し込まれた札の名が、この場での読み上げの根拠になる。婚儀の差し台より小さく、縁取りもない。実務のための台だった。
その溝の一番上に、赤い縁取りの札が差されていた。
レティシアは足を止めた。「呼称停止前 対象:レティシア」。自分の名が、禁じられる前の表示として、壁に差されている。
一拍、立っていた。扉の向こうで紙を動かす音がした。椅子を引く音がする。複数の人間がいる。読み上げの準備が整っていた。前へ出ようとして、足が止まった。止まったまま、一拍。二拍。
それでも口が開いていた。
「戻るためじゃないわ」
振り向かずに言った。声になっていた。補佐が振り返り、女官長格が振り返る。レティシアは扉を見ていた。
「私を花嫁でなかったものにする、その読み上げを止める」
扉の向こうの音が、一拍止んだ。次の瞬間、また動き始めた。




