第14話 止まらない朝
扉を押す。
重い。扉の金具が鳴り、木の厚みが手のひらに伝わってくる。
内側は暗い。石の冷えと、乾いた紙の匂いだけが来る。香ではない。何度も触られた紙の端から出る、埃の匂いだった。
灯りが二つ。壁は石積みのままで白い塗りの跡がなく、部屋の中央に台が一つ据えられている。その周りに神官が三人立っていた。
台には青い糸が何本も渡されていた。台の中を封じるための糸で、樹脂で固めてある。その内側に木枠が据えられ、縦に長い木の板が固定されていた。上段には人の名が刻まれ、下段には三行。
――装束回収。旧位置の痕跡をすべて除くこと。導線再固定。
衣装室で見た象牙色のドレスが、別の肩へ移されていく。
帳簿の文字が、前からそうだったという顔で書き換わる。
婚儀の流れが、別の名前へ繋ぎ直される。
この三行は、その手順書だった。
年嵩の神官がレティシアを見て手を止める。驚いた顔ではない。
「現在の記録にない者に対し、その名の使用を先に禁じます。前へ」
補助役がレティシアへ近づいてくる。手に白布を持っていた。視界を塞ぐためではない。誰でもない状態へ移す、その前の処置だった。
アシュベルが補助役の前に出た。「白布は」と静かに言う。「その必要はありません」
補助役が止まり、年嵩を見る。年嵩が顎を引く。「進めなさい」
「この方は名を持っています」
「手順は——」
「私が言っているのは手順の話ではありません」
補助役はまだ年嵩を見ていた。年嵩が「進めなさい」と繰り返す。
レティシアは台を見ていた。
台の前まで歩く。
封じる糸の本数が近くから分かった。七本を超えている。一本一本に樹脂が塗られ、固まっていた。台ごと動かさない限り、内側の木枠は抜けない仕組みになっている。
「これが」
「私の名を止めていた場所ですね」
年嵩の神官は答えない。補助役が背後から近づく気配がある。白布の角が視界の端で揺れていた。
アシュベルが台と年嵩の間へ動く。「確認があります」
「手順中は——」
「先ほどの手順書に、確かめる欄がありませんでした。名を禁じる前に、当人が本当に誰であるかを確かめる場所が、あの手順書のどこにもなかった」
年嵩の神官が口を閉じた。
奥から若い神官補佐が出てくる。「記録を止めます」と年嵩に告げ、年嵩が頷く。帳面係が筆を持ったまま止まった。
レティシアは台の中央の溝を見た。
手の中に、木の札がある。廊下の台で自分が書いたものだった。「レティシア」という文字だけが入っている。この溝へ差し込めば、封じる糸が切れない限り、二枚が並んで残る。切れなくても、押し込もうとした事実は残る。
補助役が白布を広げた。
台の縁を掴み、補助役が後ろから触れる前に走った。台の脇を回り、中央の溝の前へ出て、木の札を押し込む。
糸が弾く。指の先に、感触が返ってくる。樹脂で固まった糸は、木の札を通さない。もう一度押す。糸が食い込み、指が切れた。温かいものが木の面に伝わってくる。
それでも押した。
「私は——」
声が石の壁に当たった。
「止まりません」
糸が一本、音を立てる。乾いた小さな音。次の瞬間、切れた。一本が切れたことで重なりが崩れ、二本、三本と続いて切れ、内側の木枠が傾いた。
「止めなさい」と年嵩の神官が言い、補助役が動く。アシュベルが前に出て、補助役の腕を掴んだ。
木枠が傾いた拍子に、内板の一枚が外れた。裏面が出る。
青かった。
内板の裏側全体に、青いものが染みている。乾いてはいるが、木の繊維の奥まで入り込んでいた。旧神託庫の記録に滲んでいたものと、同じ色。帳簿の文字が乾いていなかった、あの朝と同じ色だった。
ここから、流れ出していたのか。
その下に、削られた線が残っていた。刻んだ後で削り取ろうとした跡で、筆圧だけが木の中に残っている。一か所ではない。削り跡が縦に、いくつも重なっていた。古いものと新しいものが混ざっている。
私だけではなかった。
レティシアは手を離した。台の縁を握ったまま立っている。血が木の面に少し付いていた。
帳面係の青年が筆を持ったまま立っている。年嵩の神官と若い神官補佐の間で、視線が揺れていた。
「書くな」と年嵩の神官が言う。
帳面係が筆先を紙に近づけ、止まった。
レティシアは台から離れ、血の付いた手で帳面係の前まで歩く。筆を受け取り、帳面係の手が離れた。
紙を引き寄せ、筆先を整えて、書く。
レティシア・ヴァンベルク
第三鐘前、この部屋に私は立った。私の名は、止められていない。花嫁の位置は、まだ誰のものでもない。
一行ずつ、置いた。筆を台に戻す。
年嵩の神官が動いていない。補助役も、若い神官補佐も、動いていない。内側の木枠が台の中で傾いたまま、封じていた糸の切れた端が垂れている。
年嵩の神官がゆっくりと口を開く。
「……婚儀の手順、暫定凍結とします」
かすれた声だった。もう一度、はっきり繰り返す。「婚儀の手順、暫定凍結とします」
若い神官補佐が記録へ走った。
廊下へ出る。
扉が後ろで閉まった。北側の廊下は、まだ夜の色をしている。松明の灯りだけが壁を照らし、窓の向こうに白いものが少し混ざり始めていた。夜明けの前の、灰色の時刻。
手が痛い。切れた指を廊下の石に当て、拭うものがないと気づいて離した。
書いた四行が、あの部屋の紙の上にある。誰も取り消せない。取り消そうとした記録ごと、残る。
手が、小さく震えていた。気づいたのは、握り直してから。
アシュベルが隣に立つ。
「レティシア様」
低い声だった。誰にも奪わせない響きがある。名前だけが廊下の石に当たり、戻ってくる。
レティシアは窓の向こうを見た。
名が消えた朝があった。
それが、ここまで来た。
「ええ」
白い光が、少しずつ、広がっていく。
誰も、この朝を止めない。
「ここからです」
その時、廊下の奥が赤く揺れた。
一拍、止まる。
壁の向こうに、火がある。あの部屋の方向から来ていた。記録を。帳面を。あの四行を——
「走れますか」
アシュベルの声だった。答えより先に、足が動く。




