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神託で婚約破棄された悪役令嬢は、選ばれないはずの騎士にだけ心が乱れる  作者: IRIS


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第15話 名より先に

 煙が、低く追ってくる。

 廊下の石が足の裏に当たるたびに、煙が揺れる。アシュベルが先を走り、曲がり角のたびに一度立ち止まってこちらを確かめ、次へ動く。確かめるたびに、確かめている。その一拍だけが、走りながら耳に届く。


 心臓の音が大きい。

 角を曲がった瞬間、梁が落ちてくる。


 音より先に、アシュベルの腕が来た。壁へ押し込まれ、背中が石に当たる。アシュベルが前に出て梁を受ける。鈍い音がして、静かになった。


 振り返ったアシュベルの顔が、すぐそこにある。

 煙で目が染みる。それだけのはずだった。心臓が、また跳ねる。


「行けますか」


 頷いて、走り始める。走りながら、さっきの音だけが耳に残っている。梁が腕に当たった、あの鈍い音が。



 古い木扉を押し開けると、冷たい空気が来た。

 石畳の小さな広場。東の空が白んでいる。夜明けの前の、灰色の時刻。

 息を整えようとして、整わない。冷たい空気が肺に入っても、心臓が落ち着かない。火はもう、ここにはない。走ることも、もう止まっている。それでも、落ち着かない。


 アシュベルが振り返る。「怪我は」

「……問題ありません」


 アシュベルが前を向き、歩き出す。

 その背中が遠くなる。一歩、また一歩。


 言葉が出た。

「……離れたくありません」


 言った瞬間、自分の手が口を塞いでいる。

 石畳を見る。視線をどこへ向ければいいか分からない。手のひらが口に当たったまま、動かせなかった。


 アシュベルが止まった。振り返る。

「今のは」


 言い直そうとして、続かない。

「……その、煙を、吸いすぎたせいで」

 言いながら、煙の話ではないと分かる。

 顔が熱い。走ったせいではない。耳の先まで、熱い。


 アシュベルは何も言わない。ただ一歩、戻ってきてレティシアの隣に立つ。

 レティシアは石畳を見たまま、アシュベルを見なかった。

「……結構です」

 一歩も、動かなかった。



 アシュベルの視線が、レティシアの手に止まる。

 血が、まだ乾いていない。台の糸を押し切ったとき切れた指から、まだにじんでいる。


「手を」

「大丈夫です」


 即座に返しながら、手を引かない。

 アシュベルが一歩、近づく。足が後ろへ動きかけ、止まる。

 アシュベルの指が、レティシアの手に触れた。傷を確かめるように、そっと。


「……っ」

 声にならなかった。触れられた指の先から、温かさが広がってくる。火の中を走ってきた手が、こんなに温かいはずがない。それでも、温かい。

 引こうとして、指が動かない。レティシアの指が、動かない。

 アシュベルがレティシアの手を、包むように握る。傷に触れないように。それだけを、丁寧に避けて。


 来るな、と思う。

 来てほしい、とも思う。


 どちらが先だったか、今となっては分からない。ただ手を、離さなかった。


 アシュベルの手が、少しだけ力を込める。ほんの少しだけ、強く握る。

 耳まで、熱い。



「一つ、聞いてもいいですか」

 石畳を見たまま、レティシアは言った。

「あなたは、なぜここにいるのですか」


 一拍、置かれる。


「神託に、選ばれなかったからです」


 レティシアは石畳を見たまま、その言葉の中にいた。

 神託に選ばれた者だけが王宮に立てる。選ばれた名だけが記録に入り、選ばれた場所にだけ接続される。この王宮のすべてが、その仕組みで動いている。


 だからアシュベルは、記録にいない。

 だから書き換わりを、外側から認識できる。

 だから今夜、ここに立てた。


 選ばれなかったからこそ、選ばれた者たちには見えないものが見えた。


「……そうですか」


 それだけ言って、続きが来ない。石畳の継ぎ目を見ている。アシュベルを見ない。見られなかった。

 アシュベルの手が、またほんの少しだけ力を込める。



 足音が来た。


 石畳の向こうから走ってくる。帳面係の青年だった。

 息を切らし、胸元を押さえながら止まる。

 胸元から、折りたたまれた紙を取り出す。


「燃えませんでした」


 声が震えている。「火が来る前に、懐へ入れていました。

 燃えませんでした」


 アシュベルがもう一方の手で一葉を受け取り、広げる。

 レティシアへ向けた。


 自分の文字が、そこにある。


 レティシア・ヴァンベルク


 第三鐘前、この部屋に私は立った。


 私の名は、止められていない。


 花嫁の位置は、まだ誰のものでもない。


 火の中を通ってきた。それでも、残っている。

 自分の手で書いた言葉が、燃えずに残っている。


 誰も取り消せない。取り消そうとした記録ごと、残る。

 白い光が、少しずつ、広がっていく。


 レティシアはアシュベルの手を、握り返した。

 気づいたのは、力を込めてから。

 アシュベルが、こちらを見ている。


 レティシアは石畳から目を上げる。アシュベルの顔を、見た。

 顔が熱い。耳まで熱い。それでも、目を逸らさなかった。


「ここからです」

第1章終了です。


お読みいただき、ありがとうございました。

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