第8話 鏡より、先に
仮縫いの作業が、すでに動いている。誰一人、立ち止まらない。
針子頭がようやく声を上げる。
「お待ちください、まだこちらは――」
「箱を」
上席の侍女の短い指示が、女の声を切った。レティシアの足元にある衣装箱へ、白手袋の手が伸びる。
「触らないで」
侍女の手が止まる。止まったのは一瞬で、その侍女はレティシアを見た。正確には、見たはずだった。けれど視線はすぐに彼女をすり抜け、留め金へ戻っている。
「仮縫いのお時間ですので」
当たり前の口調だった。
かち、と金具が外れ、蓋が持ち上がる。象牙色のドレスが、両手でふわりと掬い上げられた。絹が鳴る。するり、と軽く長い音が耳の奥を撫でていく。肩の銀糸が光を返し、見覚えのある線が、他人の手の中でほどけるように揺れた。
レティシアは動かなかった。動いてどうなる。令嬢が腕を上げる。侍女が背に回る。針子が裾を持ち上げる。全員が、滞りなく次の動作へ移っていく。
「やめなさい」
叫んだ。部屋が一瞬、静止した。しかしそれは本当に一瞬で、次の息には紐が引かれていた。きゅ、と短い摩擦音のあとにもう一度、強く。布が、別の身体に沿っていく。
レティシアは視線だけで縫い目を追った。肩の線、腰の角度、裾の落ち方。全部、知っている。何度も見た。何度も直した。あそこの銀糸は光の角度によって色が変わることも、左の袖口に入った繊細な刺繍が実はこの布のために特別に染められたものであることも。その型に、今、別の身体が入っている。
「その型は……」
言葉が最後まで出なかった。針子頭が令嬢へ駆け寄ろうとする。それを別の侍女が半歩で遮り、振り返りもせずに言った。
「危のうございます、針はまだ」
「違うのです、それは――」針子頭が食い下がる。
「少し顎をお上げくださいませ」
令嬢へ向けた別の声が、二人の間に割り込んだ。
針子頭の声は、もう誰にも届いていなかった。
鏡の前に立たされた令嬢の横顔を、レティシアはまっすぐ見た。象牙色の布が胸元へ当てられ、腰で整えられ、肩の線に沿って引かれていく。銀糸が喉元で光り、侍女の指先が髪を払い、首の後ろへ薄金のリボンが仮に添えられた。
その横顔は、美しかった。
向かっていく相手がいない。この令嬢は何も知らない。用意されたものを、用意された通り受け取っているだけだ。
鏡の端に、自分の姿が映っていた。部屋の隅に半歩ずれたまま、白い札を握りしめている。
花嫁ではない位置だった。
白い札の角が、指の腹に食い込む。レティシアはその痛みをやめなかった。
「そこ、下がって」
誰かの肘が肩に当たった。強く押され、踵が後ろの椅子脚にぶつかり、ぐらりと体が傾いだ。足元で針箱がひっくり返り、細い針が乾いた音を立てて床へ散る。ひとつが石に跳ね、もうひとつが靴先のすぐ脇に刺さった。同時に脇卓の上で温めていたコテがずれ、白い蒸気がふっと上がったかと思うと、熱せられた金具が絹の端をかすめて焦げた匂いが立った。
自分のはずだった布が、焼ける。
レティシアは歯を食いしばった。声は出さなかった。
次の一歩で、裾を踏まれた。誰かの靴がスカートの端を押さえてそのまま前へ出る。引かれた布に身体が後ろへ持っていかれ、膝が折れかけた。
その腕を、横から強い力が取った。
「下がれ」
低い声が、耳のすぐ近くで落ちた。アシュベルだった。
彼の片腕がレティシアの背と肩の間に入り、人の動線から引き出しながら半歩、一歩と壁際へ押し戻す。その間に、もう一方の手が卓上のコテをはじいた。熱い金具が石床へ落ち、甲高い音を立てて転がる。
「危ないでしょう」
侍女が顔をしかめる。苛立った声だった。アシュベルはそちらを見もしなかった。
「レティシア」
短く、名を呼ぶ。レティシアは答えなかった。答える代わりに、鏡を見た。仮縫いはまだ続いている。
「腰をあと一寸だけ」
「殿下のお色なら、銀をこちらへ」
「胸元はもう少し開けても」
声が飛び、紐が締まり、布が鳴る。絹がこすれ合い、細く湿った音が重なる。その一つひとつが、知っているはずの未来の手順だった。全部、自分のために積まれてきたものだった。
「……やめて」
それでも、言った。
針子頭が唇をわななかせ、震える声で言った。
「その銀は、違う……本当は、殿下のお色に合わせてではなく、レティシア様の――」
言い終える前に、窓は閉じているのに細い風が差し込み、鏡の脇に掛けられていた薄布がはためいた。そのはためきに引かれるように、姿見がぐらりと揺れる。
低い悲鳴が上がり、重い鏡台が前へ傾ぐ。金具が軋み、背板が鳴り、令嬢が息を呑んで侍女たちがばらばらに手を離した。
倒れる。
そう思った瞬間、アシュベルが動いた。鏡台ではなく、レティシアへ向かって。倒れる鏡より先に彼女の腰を抱えて引いた。
壁に背が当たり、その直後に破砕音が部屋いっぱいに響いた。
アシュベルの腕が、まだレティシアの腰にある。
銀の縁が石床を打つ。鏡の破片が甲高い乾いた音を立てて石床に散り、白い光が四方へ弾けた。花水の瓶が割れ、甘い香りが一気に広がる。侍女が短く悲鳴を上げ、薄布がふわりと落ちる。音は鮮明に聞こえた。ただ、どれも自分に向かってこなかった。彼の胸元が目の前にある。厚い生地の、縦に走るわずかな縫い目が見えた。右手の札を、まだ握っていた。
「怪我は」
頭のすぐ上から、声が落ちる。
「……ない、わ」
アシュベルの腕は離れなかった。レティシアも動かなかった。
ひとつ、息をついてから、レティシアは顔を上げた。
鏡の破片の向こうで、さっきまで仮縫いされていた令嬢が呆然と立っている。象牙色の布は肩からずり落ち、銀糸が半端な位置でねじれ、背中の紐だけが締めかけのまま止まっていた。
その足元に、一枚の薄紙が落ちているのが見えた。鏡台の裏に挟まっていたのかもしれない。白く細い紙に朱の印が押され、その下に青みを帯びた字が走っている。アシュベルが先に気づき、砕けた破片を踏まずに紙を拾い上げた。開いた瞬間、視線が紙の上で止まった。
「見せて」
アシュベルから半歩離れ、レティシアは手を出した。彼が無言で差し出す。
そこには短く、こう記されていた。
仮縫い更新 転写完了後、旧名の痕跡をすべて除くこと
その下に、青い細字で追記がある。
遅延時は現場優先
「現場優先」
声に出した。書類が追いつかなくても構わない、ということだ。自分の痕跡をその場で消していく。衣装も、名札も、採寸の数字も。もうそれが、始まっている。
「記録だけではない、ということです」
アシュベルが隣に立ち、低く言う。
「ええ。衣装まで替えられているなら、王宮の記録はもう信じられない」
レティシアは紙を、きつく折った。
「旧神殿へ行くわ。あそこならまだ、手が届いていないはずよ。証拠のためじゃない――止めるためよ」
床に散った鏡片の奥で、象牙色の布がかすかに光を返す。




