第7話 ほどかれた文字
旧神託庫を出てからしばらく、レティシアは一度も立ち止まらなかった。
あの石室で見た青い文字は、目を閉じても消えなかった。指先に残る冷えも、喉の奥の薄い痛みも、歩いているうちに薄れるどころか、身体の内側へ沈んでいくようだった。
だが、足を止める気にはなれない。
立ち止まった瞬間、自分の知らないところでまた何かが一つ、別人のものに縫い替えられる気がした。
「旧神殿へ向かうなら、今のうちです」
横を歩くアシュベルが言う。
「日が落ちると、第二書庫が閉まります」
「その前に寄る場所があるわ」
レティシアは前を向いたまま答えた。
「北棟の衣装室よ。採寸記録と侍女配置の札が、旧記録にあったでしょう」
わずかに間があった。
「確かめるのですね」
「ええ。帳面が残っているだけでは足りないもの」
記録だけが差し替えられたのではないはずだった。
自分のために選ばれた色も、花も、部屋も、侍女も、衣装も。そういう生活の輪郭まで変わっていなければ、婚約という立場だけをここまで滑らかに奪うことはできない。
見たいのではない。
見なければならないのだ。
「行くわ」
婚約を失ったからではない。
自分の未来が、どんな手口で別人のものにされたのかを知るために。
*
北棟へ近づくにつれ、空気が変わった。
地下の石と黴の冷気ではない。窓から差す明るい光が磨かれた床に柔らかく返り、どこかで湯を使ったあとの湿り気が、布と香油の匂いに混じっている。上階らしい、清潔で、手をかけられた空気だった。
ついこのあいだまで、自分もこの側にいたはずだった。いや、違う。本来なら今も、この側にいるはずだった。
婚礼を控えた令嬢として、北棟の衣装室に呼ばれ、採寸を受け、布見本を選び、侍女たちに囲まれて鏡の前に立つ。そんな光景が、一瞬で浮かんで、消えた。
今の自分は、その場所へ裏口から入ろうとしている。
「こちらです」
アシュベルが細い脇廊下を示す。衣装室へ続く扉は、表の回廊ではなく、侍女たちの出入りに使われる通路の先にあった。
「ずいぶん手慣れているのね」
「王宮は、正面から入れない場所ほど覚える必要があります」
扉の前で、レティシアは短く息を吸った。肩の力を抜こうとして、うまくいかない。袖口を整えかけた指が止まる。
「入れますか」
「誰に言っているの」
レティシアは頷いた。
「急ぎます」
アシュベルが扉を開く。
中にはまだ、昼の仕事の熱が残っていた。
長卓の上には裁ち鋏、巻かれた寸法紐、針箱、色見本の絹布が整然と並び、壁際には仕立て途中の衣装箱が積まれている。数体のトルソーに仮縫いのドレスが掛けられ、窓辺には白い手袋と薄金のリボンが置かれていた。誰かがつい今しがた席を外したような、人の気配の残る部屋だった。
地下の記録庫とは違う。
ここでは未来が、書類ではなく布で形になっていた。
奥で物音がして、ひとりの女が振り返る。背筋の伸びた針子頭らしい女だった。咥えていた針を外し、反射のように一礼する。
「お立ちくださいませ、先に肩を――」
言いかけて、止まった。
針が床に落ちる。
女の顔から血の気が引いた。
レティシアの方が先に息を呑んでいた。
今の言葉は考えて出たものではない。身体に染みついた手順が、そのまま口から零れたのだ。
「失礼、を……人違いを……」
「そうかしら」
冷たい声が自然に出た。
「誰と間違えたの」
「い、いえ、その……仮縫いの確認の時間かと……」
「誰の」
針子頭の唇が震える。答えたくないのではない。そこに置くべき名前を見失っている顔だった。
レティシアはゆっくり室内へ歩み入った。
「ここに残っているものを見せなさい」
「ですが、北棟の衣装はすでに――」
「見せなさい」
言い切った瞬間、喉の奥がわずかに掠れた。それでも引けなかった。
アシュベルは口を挟まなかった。出入口と窓を一度見ただけで、あとは部屋の隅に立ったまま動かない。
針子頭の視線が、壁際の衣装箱の一つへ流れる。
「それね」
レティシアは迷わずその箱へ歩み寄り、蓋を開けた。
中には、淡い象牙色のドレスが畳まれていた。婚礼用ほど大仰ではないが、正式な披露の場に用いられる格のものだ。胸元は控えめに開き、腰から裾へ落ちる線はすっきりとしている。刺繍はまだ途中で、肩のあたりに銀糸が仮に留められていた。
蓋を押し上げた指が、行き場をなくした。
見覚えがあったからではない。見覚えがあるはずの形だったからだ。
肩幅、身頃の取り方、絞りすぎない腰の線。レティシアは幼いころから仕立てに囲まれて育ってきた。
採寸のときにどう息を止めるか、仮縫いでどこに針が入るか、知っている。だから分かってしまう。これは、もともと自分の身体を前提に起こされた型だ。
違うのは、今ついている名札だけだった。
仮留めされた白い札には、別の令嬢の名が記されている。レティシアは無言で裏返した。糸穴が二列、縦に並んでいた。新しい穴の下に、ほどいた跡がある。
裏布には金糸のわずかな引っかかりが残り、消し切れなかった文字が一つ、縦に、細くのぞいていた。
レ ――
「……ああ」
怒りとも悲しみとも違う、もっと深いところから漏れた声だった。
記録が差し替えられたと知ったとき、レティシアは動じなかった。帳面の数字なら読める。だがこれは布だ。自分の肩幅で型が起こされ、自分の胴囲で身頃が裁たれ、自分の裾の長さで糸が引かれた。
それを誰かが丁寧にほどき、別の名前を重ねた。婚約者の座を奪われたのではない。自分に合わせて作られた明日そのものが、静かに縫い直されていた。
指先が、布から離れなかった。
「お嬢様……」
針子頭が青ざめたまま一歩出る。呼びかけたあとで、自分が何と呼んだのかに気づき、口元を押さえた。
レティシアは顔を上げる。
「今、何と?」
「……申し訳、ありません」
「謝罪を聞いているのではないわ」
それでも視線は逸らさない。
「あなたの手は覚えているのね。頭では分からなくても」
針子頭は答えない。両手を胸の前で強く握りしめている。
「わたくしは……命じられた通りに札を付け替えただけで……」
針子頭自身が、はっとして口を押さえる。
「付け替えたのね」
「違、私は……北棟の照合札は記録官室から回されます。わたくしたちは、合図に従って――」
「誰の指示で」
「存じません。札に記された通りにしただけです。侍女も、衣装係も、花係も……皆」
花の色も、部屋のしつらえも、侍女の配置も。衣装だけではなかった。生活の輪郭そのものが、同じ手順で差し替えられていた。
レティシアは唇を噛みしめたまま、布に視線を落とした。
「婚約そのものに未練があるわけではないと、そう思いたかったのに」
指先が、布の上で小さく震える。
「こんなふうに消されるのは……あまりに惨めだわ」
言い切ると同時に、肩から力が抜けた。アシュベルが音もなく椅子を引く。レティシアは座らなかった。ただ、背もたれに指先を触れ、その硬さで呼吸を戻した。
アシュベルはドレスそのものには触れず、箱の底を調べた。内布の端に折り込まれていた薄紙を引き出し、広げる。寸法控えだった。肩幅、袖丈、胸囲、胴囲、裾の落ち幅。数字を正確に暗記していなくても、見れば分かる。これは自分のための採寸だ。その上から、別の筆跡で新しい名が書き足されている。
隅には朱の印があった。
第二書庫 記録移送済
衣装箱に、書庫の印がある。レティシアは一度だけ瞬いた。その下に、青みを帯びた細い字がかすれて残っている。転写先 ア――。そこから先は滲んで読めない。旧神託庫で見た文字と、同じ筆跡だった。
「第二書庫……」
薄紙をアシュベルが静かに折り返した、その時だった。
ちりん、ちりん。
廊下の向こうで、澄んだ鈴が短く二度鳴った。
続けて、複数の足音が石床を渡ってきた。急がないのに速い、慣れた女たちの歩幅だった。硬い踵の音に、針箱の金具が触れ合う細かな響きが混じる。
遅れて匂いが流れ込んだ。花水の甘さ、粉香のやわらかな乾き、湯を含ませて伸ばした絹の湿った熱。
針子頭が振り向き、顔色を変えた。
「なぜ、今……」
扉が開いた。白手袋を捧げ持つ侍女、銀糸の盆を抱えた下働き、腕輪状の針山をはめた若い針子。
その後ろから、薄い外套を脱ぎながら一人の令嬢が入ってくる。年頃はレティシアとそう変わらない。
蜂蜜色の髪を高くまとめ、仮縫い用の薄衣の上に軽い羽織だけを掛けていた。頬には外気の赤みが残っている。入ってくるなり、当たり前のように部屋の中央へ立った。
「少し遅れたわ。殿下のお戻りまでに済むかしら」
「ベルマー様、お待ちしておりました。すぐに肩から合わせます」
上席の侍女が即座に一礼した。




