第6話 接続先変更
レティシアは頁を押さえた。
その時だった。
青い滲みが、ひとりでに濃くなった。
じわり、と紙の中央を這い、先ほどまで読めていた文字が、もっともらしい別の文へ塗り替わりはじめる。
『王妃教育開始』が、『候補対象外』へ。
紙が破れるのではない。記録だけが汚されるのでもない。現実そのものが、より自然な嘘へ滑っていく。
「っ、やめて……!」
帳面を強く押さえた。
手袋越しに伝わる冷たさは紙のものではなかった。もっと生ぬるく、もっと不快なものが、指先から入り込んでくる。
温室の景色がよぎる。
春だったはずなのに、窓辺の花の色が曖昧になる。
エドガーの声が遠くなる。
祝福のように聞こえた言葉が、ただの形式的な確認だったかもしれないと、記憶の輪郭が揺らぐ。
「触れすぎるな」
アシュベルの声が、初めて鋭く響いた。
「レティシア」
その声に、温室の景色が戻った。曖昧になっていた花の色が、輪郭を取り戻す。
「……平気よ」
「平気には見えません」
アシュベルは帳面から彼女の手を静かに外した。
指先の手袋には、細い青が残っている。
アシュベルは帳面から彼女の手を静かに外し、侵食された頁を一度見た。乱暴ではないが、有無を言わせない手つきだった。レティシアも視線を落とす。青を逃れた隅に、辛うじて残っている文字があった。
旧神殿、第二文書庫。
「旧神殿……」
「王宮の記録から切り離された古い書庫です。現行の神官はほとんど使わない」
「なら、まだ消されていないものがある」
「ある可能性は高い」
レティシアはゆっくりと帳面を見下ろした。
「……婚約を取り消されたのだと思っていた」
ひと呼吸あって、もう一度。
「最初から、なかったことにされるところだった」
アシュベルは何も言わなかった。
レティシアは青の残る指先を見つめ、それからゆっくり握りしめた。
「行くわ」
アシュベルが視線を上げる。
「旧神殿へ。残っているうちに」
「急ぐ必要があります」
「ええ。もう待たない」
「このまま終わるつもりはないわ」
アシュベルは何かを言いかける気配があったが、彼は結局うなずくだけにとどめた。
「では急ぎましょう」
旧神託庫を出る直前、レティシアは一度だけ振り返った。
開いたままの帳面の余白に、青が最後の息をするように細く走っている。その上に、新しい文字が浮かびかけた。
婚約承認取消、ではない。
接続先変更。
その下に続く名は、半分だけ現れて、すぐに滲んだ。
ア――
そこから先は読めなかった。
奪われたのではない。
差し替えられたのだ。




