第5話 旧神託庫に残る名
王宮の地下へ続く石段は、下りるごとに上の光を遠ざけていった。
古い石は角が欠け、裾を持ち上げていても踏み外しそうになる。
こんな場所まで来るとは思っていなかった。
今朝まで自分は第一王子の婚約者として、磨かれた廊下を歩く側の人間だった。
それが半日で、誰にも知られてはならないものを盗みに行くように、地下へ降りている。
けれど、来るしかなかった。
ここで何も見つからなければ、自分の記憶は本当に思い込みにされる。
婚約を失った令嬢が取り乱しているだけだと、そういうことにされて終わる。
侮蔑も、困惑も、憐れみも、全部そのまま自分の人生に貼りついてしまう。
それだけは、許せなかった。
「足元を見てください」
前を行くアシュベルが、振り返らずに言った。
言われるまでもない、と返しかけた時、石段の端がわずかに崩れた。
靴先が空を蹴り、裾ごと身体が傾く——気づいた時には肘を掴まれていた。
引き寄せるでも押し返すでもなく、ただ傾きを止める。転ばないと分かった瞬間に、もう手はなかった。
レティシアは一瞬、次の言葉を忘れた。
「……随分と、必要最低限なのね」
「足りました」
それだけ言って、アシュベルは歩き続けた。
おかしな男だ。王宮にいる誰もが今の自分を『婚約を失って平静を欠いた令嬢』として見るのに、この男だけは最初から違う。
慰めもしない。疑いもしない。
ただ当然のように、自分がここまで来ることを前提にしている。
自分が自分の正気を、いちいち証明しなくていい。そういう場所に初めて立っている、と気づいた時、レティシアは何も言わずに歩き続けた。
石壁の途中に、削り取られた紋章がいくつも残っていた。現行の神託盤に刻まれる印とは少し違う、古い円と枝葉の意匠。だが、その下だけが違う。名の部分にだけ、細い溝が走っている。
レティシアは足を止め、指先で溝の縁を辿った。
雑ではない。丁寧に、名だけを選んで削っている。
壊したかったなら全部消せばよかった。残したかったなら何も触らなければよかった。
なのに紋章は残して、名だけがない。
これは、忘れた場所ではない。
「忘れさせるために閉じられたのね」
短い沈黙のあと、彼は低く言った。
「そう見るのが自然です」
今朝から何人に話しかけただろう、とレティシアは思った。その全員が、同じ目をしていた。腫れ物に触るか、憐れむか、早く黙らせようとするか。誰一人、ただ頷かなかった。
レティシアはアシュベルの背中を見た。彼はもう歩き始めていた。
それ以上何も言わず、あとに続いた。
石段を下りきった先に、厚い鉄扉があった。古い封印の上から、新しい鍵がかけられている。
閉じたまま保存したかったのではない。誰かが、今も出入りしている。
アシュベルが鍵を差し込み、扉を押し開けた。
湿った冷気が先に出てきた。続いて、古紙の匂い。レティシアは一歩踏み入れ、足を止めた。棚の並びは整っている。埃もある。一見すれば、ただ長く閉じられていた書庫に見える。
けれど何かが合わない。空気の重さが、場所の見た目と釣り合っていない。埃の積もり方が、棚によって違う。誰かが触れた場所と、触れていない場所がある。
視線が自然と奥へ引き寄せられた。黒ずんだ木棚の一角に、青い染みが滲んでいた。
「……何、あれ」
棚板の端を這う青は、水でもインクでもなかった。乾いているのに、じわじわと広がっている。
「侵食です」
その言葉より先に、色に見覚えがあった。神託盤に浮かぶ青白い光と同じだ。つまりここでも、記録が書き換えられている。
「古い記録ほど、書き換わるまでに時間がかかる。だから、まだ痕が残る」
残る、という言い方が気に入らなかった。
「残っているんじゃないわ」
レティシアは青から目を離さずに言った。
「消える途中なだけ」
アシュベルは否定しなかった。
青はまだ、じわじわと広がっていた。
「探すわ」レティシアは棚へ向かった。
見出しを一つ一つ読んでいく余裕はない。ただ、今の自分に必要なのは一つだけだ。
自分の名が、どこかに残っているかどうか。それを誰かの口から聞くのではなく、自分の目で確かめることだった。
指先で背表紙を追う。
革の傷み、紙の匂い、乾いた木のざらつき。そこに混じって、一箇所だけ指が止まった。触れた瞬間より先に、何かが違うと分かった。
数列の奥、擦り切れた革表紙の束の中に、その名があった。
――レティシア・ヴァンベルク
レティシアはしばらく動けなかった。
見間違いではない。夢でもない。確かに自分の名だ。しかも現行の婚約台帳にはない古い書式で、候補記録として綴じられている。
帳面を開いた。
最初の頁には、家名、出生時刻、適性値。味気ない記録が並んでいる。だが、その先をめくった途端、手が止まった。
王妃教育開始。
王太子、面会記録。
北棟衣装採寸記録。
侍女配置調整。
そこにあったのは、消えたはずの文脈だった。
誰にも証明できないと思っていたもの。
自分だけが確かにあったと知っていた時間。
そのひとつひとつが、ここではただの妄想ではなく、記録として残されている。
温室で交わした日取りの調整まであった。
春の匂いの中で、エドガーが何気ない顔で口にした言葉。あの時、自分は確かに『その先』の人生へ進むものとして扱われていた。
あったのだ。
本当に、あった。
「……やっぱり」
声がうまく出ない。
「私が狂っていたわけじゃない」
誰かに言いたかった。今朝から顔を合わせた全員に、順番に言ってやりたかった。侮蔑も、困惑も、憐れみも、あの目の全部に向かって。
だが、次の瞬間、頁の端が目に入った。
青が、さっきより広がっている。
文字の末尾が薄れている。日付の一部が霞んでいる。
残っているのではない。
まだ、
消え切っていないだけだ。
今この瞬間にも、消されている。




