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神託で婚約破棄された悪役令嬢は、選ばれないはずの騎士にだけ心が乱れる  作者: IRIS


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第4話 消された婚約の証

「も、申し訳ございません。公爵家の……」


 侍女はそこで言葉を失った。私の名が出てこない。私は彼女を押しのけるようにして扉を開けた。部屋の空気は同じだった。

 窓辺の長椅子も、淡青のカーテンも、書机の位置も変わっていない。

 なのに、一歩入った瞬間に分かる。ここはもう、昨日までの私の部屋ではない。


 壁際の棚にあったはずの王太子妃教育用の法令集が消えていた。

 代わりに並んでいるのは、社交作法の初歩と、貴族令嬢の慎みについての古い心得書ばかりだ。

 しかも何冊かには、わざとらしいほど目立つ赤い付箋が挟まっている。


 私は書机の引き出しを開けた。

 婚礼準備の覚え書き、式服の仮案、王家からの贈答目録

 そこに入れていたはずのものは、一つもなかった。

 代わりに出てきた紙束の一番上には、見覚えのない文面が並んでいる。


 ――公爵令嬢レティシア、気位高く配慮に欠ける。

 ――王太子妃教育には不向き。

 ――婚約候補としては再考を要す。



 私は無意識に、その紙を握り潰しかけた。

 ただ婚約が消えたのではない。最初から私が相応しくなかったことにされ始めている。

 王宮で囁かれてきた"悪役令嬢"の輪郭に、神託が都合よく形を与え直しているのだ。

 あまりに手際がよく、吐き気がした。


 けれど、それ以上にきつかったのは、その隣に置かれていた小さな革箱だった。

 そこには、王太子殿下から婚約内示の夜に贈られた銀のしおりをしまっていた。

 庭園の白薔薇を透かし彫りにした、ごく小さな品だ。人に見せるほどのものではない。

 けれど、確かに私の未来の側にあった証だった。


 私は箱を開く。中には、何もなかった。

 代わりに置かれていたのは、家紋も王家の印もない真珠の髪留めだった。

 泣きそうにはならなかった。ただ、私はしばらく動けなかった。



「ここまでやるのね」

 私が呟くと、騎士は部屋の入口に立ったまま答えた。

「婚約は結果です。先に消されるのは、その人間がそこへ至るまでの文脈だ」

「本当に嫌な世界」

「同感です」


 その時、扉の外からおそるおそる声がした。

「失礼いたします……何かお探し物でしょうか」


 さっきの侍女だ。私は振り向きもせずに言った。

「王太子妃教育の資料を探しているの」


 しばらく沈黙があってから、困惑した声が返る。

「……そのようなご予定が、ございましたでしょうか」

 知らないのではない。

 最初からそんなものは存在しなかったと、そう信じている声だった。


 私はゆっくり扉を閉めた。少し強く閉めすぎて、金具が短く鳴る。


「屋敷に戻れば安全だと思う?」

「生きているだけなら、すぐには」

「私が私のままでいる、という意味では」


 彼はわずかに沈黙した。それだけで十分だった。

 私は空の革箱を閉じる。黙って屋敷に戻れば、公爵令嬢としての生活は続くのかもしれない。

 けれど、そこにいるのはもう"婚約神託を受けたレティシア"ではない。

 神託に弾かれ、相応しくなかったことにされた、別の誰かだ。

 そんなものを私だと認めるくらいなら、まだ戦う方がましだった。


「残っている記録はあるの」

「現行の神託と連動していない場所なら」

「どこ」

「旧神託庫です。王宮の地下にある」

 私は顔を上げた。

「地下?」


「いまの制度が整う前の記録が残る場所です。そこなら上書きが遅い」

「そこへ行けば、私の婚約が本当にあった証拠も見つかる?」

「あるかもしれません」

「また曖昧ね」

「確約できることだけ口にしていたら、もう手遅れになる」


 正論だった。気に入らないけれど、否定もできない。

「分かったわ。行く」彼は黙って扉を開いた。


 外の回廊は静かだった。

 静かすぎて、王宮の中ではなく、誰かの墓の中を歩いているようだった。

 回廊の端、誰も気に留めない古い装飾壁の前で、彼は立ち止まった。


 石の継ぎ目に手をかけると、鈍い音を立てて壁の一部が内側へずれる。

 下から、冷たい空気が吹き上がってきた。

 現れたのは、灯りもまばらな細い石階段だった。底は見えない。

 それでも、あの空っぽの箱が頭から離れなかった。

 私の未来だったものが、もうどこにもない部屋。

 あれを見たあとで、引き返す気にはなれない。


「行く前に一つだけ」

 階段の前で足を止めて、私は言った。

「まだあなたの名前を聞いていないわ」

 彼は少しだけこちらを見た。

「聞いても、記録には残りません」

「だから何」

「この国では、神託に載らない名は記録されない。私の名はそういうものです」

「なおさら聞く価値があるわね」


 ほんのわずか、彼の表情が揺れた。今日になって初めて、人間らしい間だった。


「……アシュベルです」


 その名を聞いた瞬間、少し黙った。

 王太子の名を呼ぶ時とも違う。どう受け取ればいいか分からなかった。


「変な名前」

「よく言われます」

「便利な返しね」

「慣れているので」


 腹が立つのに、どこかで構えが解けている。認めたくもなかった。


「案内して、アシュベル」

 私が言うと、彼は一瞬だけ目を細めた。

「ここから先は、戻れないかもしれません」

「もう戻れないわよ」


 私は暗い階段へ視線を落とした。

 婚約を奪われ、神託に否定され、人生の文脈まで削られ始めた朝の続きとしては、あまりに薄暗い入口だった。


 けれど、消されて終わるくらいなら、自分の名を取りに行く方がいい。

 私は一段目に足をかけた。

 その背後で、王宮のどこか遠く、祝福の鐘が遅れて鳴る。

 誰のための祝福なのか、もう考えたくもなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしている。

 神託が私の婚約を奪ったのなら、私は神託の外まで取り返しに行く。

 そうして二歩目を踏み出した時、階下の闇の奥で、ぱらり、と乾いた紙の音がした。


 私たちは同時に足を止める。

 旧神託庫には、もう誰かがいる。

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