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神託で婚約破棄された悪役令嬢は、選ばれないはずの騎士にだけ心が乱れる  作者: IRIS


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3/15

第3話 記録にない人間と、記録から消える人間

 私の婚約は、ほんの少し前まで、王宮の中央で神託に祝福されていたはずだった。

 それなのに今は、見知らぬ騎士に手を引かれ、誰にも見つからないよう回廊を急いでいる。

 あまりに悪趣味だ。


「急いでください」

 騎士が低く言った。

「説明もなく連れ回される趣味はないわ」

「攫うつもりなら、もっと静かな場所を選びます」

「その言い方、安心材料になっていないのだけれど」


 言い返しながらも、私は足を止めなかった。

 怖いに決まっている。婚約承認の神託が覆っただけでも十分異常なのに、今はその記録そのものが、私をなかったことにしようとしている。

 それでも逃げ出さないのは、たぶん意地だ。


 あの大広間で、あれだけの人間に見られながら婚約を奪われた。そのうえ理由すら分からないまま黙って消えるなんて、冗談ではない。


 騎士は私の半歩前を歩いていた。手はすぐに離されたが、こちらを置いていくつもりもないらしい。角を曲がる前、わずかに歩調が変わる。人の気配を読んでいるのだと分かって、私の脚が半歩遅れた。


 西棟を抜け、古い回廊に入る。窓が細くなり、昼の光が床に細い帯を落としていた。

 前方から侍女がひとり、小走りでやって来る。王妃付きの補助侍女だ。私にも何度か茶会の席次表を届けに来たことがある。

 彼女は私を見ると、反射的に立ち止まった。


「あ……公爵令嬢様」

 レティシア様、ではない。

 たった一言の差なのに、どこにも置き場がなかった。


 彼女は私を知っている。けれど、どう扱う相手なのかが定まっていない。昨日までならあり得ない迷いだった。


「式典の途中ではございませんでしたか」

 薄い声音だった。ほんの少し前まで、王太子殿下の婚約者として扱っていた相手に向ける声ではない。

「途中よ。少し具合が悪くて」

 侍女は困ったように笑った。

「それは……お大事になさってくださいませ」


 それだけ言って、彼女は下がった。

 私の後ろにいる騎士には、ほとんど視線も向けない。見えていないのか、見えていても認識が引っかからないのか、そのどちらかだった。


 侍女の足音が遠ざかってから、私は小さく息を吐いた。

「今ので分かったでしょう」

「ええ」

「婚約がなくなっただけじゃない。私への扱いそのものが、ずれ始めている」

「神託に沿って、現実が揃えられています」


 淡々とした声だった。

「気味の悪い言い方ね」

「もっと気味の悪い現象です」

 否定できなくて、私は口をつぐんだ。


 騎士に案内されるまま、使われていない小礼拝室に滑り込む。扉を閉めると、古い木と蝋の匂いがした。薄暗い室内に白い埃が積もっていて、人に忘れられた場所そのものだった。


 私は振り返り、彼を正面から見た。

「ここなら話せるわね。まず、あなたは誰」


 彼は少しだけ目を細めた。

「王宮に出入りはしています」

「そんなことは見れば分かるわ。どこに属しているのかと聞いているの」


 短い沈黙のあと、彼は言った。

「いまの神託には属していません」

「……は?」

「正確には、神託盤にも、現行の記録系統にも名前が載らない」

 一瞬、意味が分からなかった。


「そんな人間が王宮を歩けるわけがないでしょう」

「本来なら」


 思考が、一瞬だけ止まった。

 この男だけが侍女の認識から半分滑っていた理由が、それなら説明できる。王宮は神託と記録で秩序を回している。その外にいる人間なんて、いていいはずがない。


「だから、書き換わりを認識できるの?」

「それもあります」

()()()?」

「あなたもそうだからです」


 私は思わず眉を寄せた。

「私が?」

「あなたは婚約神託が覆った瞬間を覚えている。帳簿の違和も認識した。普通なら、自分の記憶の方を神託に合わせます」


 私はすぐに返せなかった。

「私は、まだ狂っていないと言いたいの?」

「ええ。まだ」

「その()()が大嫌いだわ」

「そうでしょうね」

 腹が立つのに、信用できてしまう。癪だった。


「……なぜ私を見ていたの」

「あなたが消される側ではなく、残る側かもしれないと考えていたからです」

「今日まで確証がなかった?」

「青いインクに触れても、記憶を失わなかった。十分です」

 私は息を吐いた。


「なら次。私は何から消されようとしているの」

「婚約だけでは終わりません。肩書き、扱い、置かれる場所、そこへ至るまでの文脈――順番に削られます」

「ずいぶん丁寧に人生を殺すのね」

「雑にやると、他の記録と齟齬が出る」

「説明されると余計に腹が立つわ」

 彼は何も言わなかった。腕を組む様子もなく、ただそこに立っている。


「私の部屋を見に行く」

 口にした途端、彼の視線がわずかに鋭くなる。

「危険です」

「危険だから見ない、という選択肢は嫌いなの。そこに何が消えたのか、自分で確かめる」

 ほんの一瞬だけ、彼の口元が動いた。


「そう言うと思いました」

「勝手に分かった顔をしないで」

「失礼しました、レティシア嬢」

 その呼び方に、私は少しだけ目を見開いた。

 今日になってから、私の名前を、ためらいなくまっすぐ呼んだのはこの男だけだった。

 なぜそれを聞き留めてしまったのか、気に入らなかった。


 私室の前廊に着いた時、異常はさらに露骨になった。

 扉の前にいた侍女が、私を見るなり戸惑ったのだ。

「失礼ですが、どなたにご用でしょうか」

 私は一瞬、聞き間違えたのかと思った。

「どなたに、ですって?」

 侍女は青ざめる。けれどそれは、私に叱られるのを恐れた顔ではない。自分がおかしなことを言ったと、遅れて気づいた顔だった。

「も、申し訳ございません。公爵家の……」

 公爵家の、で止まる。

 名前が出てこない。

 私の部屋の前で、侍女は私を知らない顔をしていた。


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