第3話 記録にない人間と、記録から消える人間
私の婚約は、ほんの少し前まで、王宮の中央で神託に祝福されていたはずだった。
それなのに今は、見知らぬ騎士に手を引かれ、誰にも見つからないよう回廊を急いでいる。
あまりに悪趣味だ。
「急いでください」
騎士が低く言った。
「説明もなく連れ回される趣味はないわ」
「攫うつもりなら、もっと静かな場所を選びます」
「その言い方、安心材料になっていないのだけれど」
言い返しながらも、私は足を止めなかった。
怖いに決まっている。婚約承認の神託が覆っただけでも十分異常なのに、今はその記録そのものが、私をなかったことにしようとしている。
それでも逃げ出さないのは、たぶん意地だ。
あの大広間で、あれだけの人間に見られながら婚約を奪われた。そのうえ理由すら分からないまま黙って消えるなんて、冗談ではない。
騎士は私の半歩前を歩いていた。手はすぐに離されたが、こちらを置いていくつもりもないらしい。角を曲がる前、わずかに歩調が変わる。人の気配を読んでいるのだと分かって、私の脚が半歩遅れた。
西棟を抜け、古い回廊に入る。窓が細くなり、昼の光が床に細い帯を落としていた。
前方から侍女がひとり、小走りでやって来る。王妃付きの補助侍女だ。私にも何度か茶会の席次表を届けに来たことがある。
彼女は私を見ると、反射的に立ち止まった。
「あ……公爵令嬢様」
レティシア様、ではない。
たった一言の差なのに、どこにも置き場がなかった。
彼女は私を知っている。けれど、どう扱う相手なのかが定まっていない。昨日までならあり得ない迷いだった。
「式典の途中ではございませんでしたか」
薄い声音だった。ほんの少し前まで、王太子殿下の婚約者として扱っていた相手に向ける声ではない。
「途中よ。少し具合が悪くて」
侍女は困ったように笑った。
「それは……お大事になさってくださいませ」
それだけ言って、彼女は下がった。
私の後ろにいる騎士には、ほとんど視線も向けない。見えていないのか、見えていても認識が引っかからないのか、そのどちらかだった。
侍女の足音が遠ざかってから、私は小さく息を吐いた。
「今ので分かったでしょう」
「ええ」
「婚約がなくなっただけじゃない。私への扱いそのものが、ずれ始めている」
「神託に沿って、現実が揃えられています」
淡々とした声だった。
「気味の悪い言い方ね」
「もっと気味の悪い現象です」
否定できなくて、私は口をつぐんだ。
騎士に案内されるまま、使われていない小礼拝室に滑り込む。扉を閉めると、古い木と蝋の匂いがした。薄暗い室内に白い埃が積もっていて、人に忘れられた場所そのものだった。
私は振り返り、彼を正面から見た。
「ここなら話せるわね。まず、あなたは誰」
彼は少しだけ目を細めた。
「王宮に出入りはしています」
「そんなことは見れば分かるわ。どこに属しているのかと聞いているの」
短い沈黙のあと、彼は言った。
「いまの神託には属していません」
「……は?」
「正確には、神託盤にも、現行の記録系統にも名前が載らない」
一瞬、意味が分からなかった。
「そんな人間が王宮を歩けるわけがないでしょう」
「本来なら」
思考が、一瞬だけ止まった。
この男だけが侍女の認識から半分滑っていた理由が、それなら説明できる。王宮は神託と記録で秩序を回している。その外にいる人間なんて、いていいはずがない。
「だから、書き換わりを認識できるの?」
「それもあります」
「それも?」
「あなたもそうだからです」
私は思わず眉を寄せた。
「私が?」
「あなたは婚約神託が覆った瞬間を覚えている。帳簿の違和も認識した。普通なら、自分の記憶の方を神託に合わせます」
私はすぐに返せなかった。
「私は、まだ狂っていないと言いたいの?」
「ええ。まだ」
「そのまだが大嫌いだわ」
「そうでしょうね」
腹が立つのに、信用できてしまう。癪だった。
「……なぜ私を見ていたの」
「あなたが消される側ではなく、残る側かもしれないと考えていたからです」
「今日まで確証がなかった?」
「青いインクに触れても、記憶を失わなかった。十分です」
私は息を吐いた。
「なら次。私は何から消されようとしているの」
「婚約だけでは終わりません。肩書き、扱い、置かれる場所、そこへ至るまでの文脈――順番に削られます」
「ずいぶん丁寧に人生を殺すのね」
「雑にやると、他の記録と齟齬が出る」
「説明されると余計に腹が立つわ」
彼は何も言わなかった。腕を組む様子もなく、ただそこに立っている。
「私の部屋を見に行く」
口にした途端、彼の視線がわずかに鋭くなる。
「危険です」
「危険だから見ない、という選択肢は嫌いなの。そこに何が消えたのか、自分で確かめる」
ほんの一瞬だけ、彼の口元が動いた。
「そう言うと思いました」
「勝手に分かった顔をしないで」
「失礼しました、レティシア嬢」
その呼び方に、私は少しだけ目を見開いた。
今日になってから、私の名前を、ためらいなくまっすぐ呼んだのはこの男だけだった。
なぜそれを聞き留めてしまったのか、気に入らなかった。
私室の前廊に着いた時、異常はさらに露骨になった。
扉の前にいた侍女が、私を見るなり戸惑ったのだ。
「失礼ですが、どなたにご用でしょうか」
私は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「どなたに、ですって?」
侍女は青ざめる。けれどそれは、私に叱られるのを恐れた顔ではない。自分がおかしなことを言ったと、遅れて気づいた顔だった。
「も、申し訳ございません。公爵家の……」
公爵家の、で止まる。
名前が出てこない。
私の部屋の前で、侍女は私を知らない顔をしていた。




