第2話 記録にいない騎士
入ってきたのは、見慣れない騎士だった。
王宮騎士の正装ではある。だが胸元にあるべき家紋の留め具がなく、肩章の色も規格からわずかに外れて見える。黒に近い紺の外套。薄い灰色の瞳。私とそう年の変わらない若さなのに、立ち方だけが妙に静かで、王宮の人間特有の正しく見られるための緊張がない。
私は警戒を隠さなかった。
「無断で鍵を開けるなんて、礼儀をご存じないのね。どなたの命令ですか。私を笑いに来たなら、時間の無駄よ」
騎士は眉一つ動かさず、私ではなく机上の帳簿へ目を落とした。それから、手袋についた青いインクへ。
「……やはり、あなたは残っていた」
「何ですって」
「その頁に触れましたね」
問いの形をしていたが、答えは知っている顔だった。私は一歩下がる。
「答える義理はありません」
「そうですね」
あっさり引かれて、逆に調子が狂う。普通ならここで名乗るか、命令だと言うか、せめて王宮のどこ所属かくらいは示すものだ。なのにこの男は、そんな手順が最初から不要であるかのように、静かに私だけを見ている。
その視線に、不快より先に苛立ちが来た。
今日一日で、まともに私を見た人間が何人いただろう。皆、神託の結果か私の失態しか見ていなかった。この男だけが、最初から私自身を確かめるように見てくる。
だからこそ危険だ。
「あなた、誰」
声が少し掠れた。
騎士はすぐには答えなかった。記録室の薄闇の中で、一歩だけ近づく。その一歩に威圧はないのに、逃げるべきだと頭では分かるのに、足が動かなかった。
ようやく見つけた現実への手がかりの匂いがしたからだ。
「名を言っても、あなたには確かめる手段がない」
そんな言い方があるだろうか。あるらしい。この男は平然と言った。
そして、私の手袋の青い染みを見て、わずかに目を細める。
「よかった」
「何が」
「完全には書き換わっていない」
気づいたら、息を止めていた。
「……あなた、何を知っているの」
「あなたが知っていることと、ほぼ同じです。第一王子の婚約者は本来あなただった。けれど記録が塗り替わり、周囲の認識もそれに引かれている」
今日初めて、私の言葉が通じた。
安堵が先か、恐怖が先か、自分でも分からなかった。
私の記憶は、狂っていない。
「……どうして、それを」
「その説明をここでする気はありません」
随分と不親切な男だった。人を助ける台詞を言った直後に、別の種類の苛立ちをくれる。
「ふざけているの?」
「いいえ。急いでいます」
彼は扉の方を一瞥した。
「次は帳簿では済まない」
「何ですって」
「このままここにいれば、あなたの方が記録に合わせて削られる」
冗談にしては、声音が静かすぎた。
「そんなこと――」
「さっきまで婚約者だった。今は神託に逆らった令嬢だ。明日には、第一王子に執着して虚言を撒いた女になるかもしれない。もっと進めば、あなた自身が、最初からそうだったと思い始める」
ありえない、と笑い飛ばしたかった。
けれど笑えなかった。たった数刻で、現実はすでにそこまで私を置き去りにしている。
「安心してください、と言いたいところですが、たぶん無理でしょう」
騎士は低く言った。
「それでも一つだけ確かなことがあります。あなたの記憶は狂っていません」
その言葉だけが、静かに届いた。
私はまだ、自分を見失っていない。
「なら、どうすればいいの」
「ここを離れます」
「どこへ」
「記録の力が及ばない場所へ」
何を言われているのか、一瞬理解が追いつかなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「あなた……王宮の人間なのに、どこにも、名前がないの?」
王宮に仕える者の名は、必ずどこかの記録に残る。任を受けた日も、配属先も、叙任の証も。それがないまま宮中を歩く者など、本来いるはずがない。
自分でも妙な問いだと思った。けれど、そうとしか言えなかった。
騎士は少しだけ目を伏せ、それから私をまっすぐ見た。
「ええ。王宮の名簿にも、俺の名はありません」
ありえない。
どの記録にも名がないまま、王宮を歩ける者など本来いるはずがない。
なのに、目の前の男は平然と立っている。
王宮のどの記録にも記されていないはずの男だけが、私の知っている現実を知っていた。
「……そんなの、どうやって王宮に」
「その話も後です」
短く返される。苛立つのに、否定しきれない。この男が嘘をついているのなら、もっと別の嘘のつき方をするはずだった。
「来てください、レティシア嬢。あなたが消える前に」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥で何かが切り替わった。
婚約を奪われた朝だと思っていた。
違う。
これは、私の名が世界から消え始めた朝だ。
なら、泣いて終わるわけにはいかない。
私は青く染んだ手袋の指先を見て、それから彼の手を見た。差し出されたその手だけが、今の私にとって唯一、さっきまでの現実へ続く綱のように見えた。
「……あとで全部、説明してもらうわよ」
「できる限りは」
「その曖昧さ、嫌いだわ」
騎士は答えなかった。
こんな状況だというのに、わずかに腹が立った。腹が立てるなら、まだ大丈夫だ。
私は顎を上げた。
「いいわ。案内なさい」
その手を取った瞬間、記録室の奥で、閉じたはずの帳簿がひとりでにぱらりと鳴った。
振り返る。
開いた頁の端で、さっきまで私の名があった場所に、青い染みがゆっくりと滲んでいた。
まるで、次に消す文字を探しているみたいに。




