第1話 婚約者の名が消えた朝
本作品をお読みくださり、ありがとうございます。
初めての投稿になります。
最後までお付き合いいただけますと幸いです。
婚約神託の盤に浮かんだ名前を見た瞬間、私は一度だけ瞬きをした。
見間違いなら、その一回で十分だと思ったからだ。
けれど白い石盤の上に並ぶ金文字は、瞬きのあとも少しも変わらなかった。
第一王子エドガー
婚約承認
フィオナ・ベルマー男爵令嬢
私の名が、なかった。
つい今しがたまで祝福の空気に満ちていた王宮の大広間で、ざわめきの質だけが変わる。驚きではない。納得と安堵。ようやく正しい答えが示された、とでも言いたげな落ち着いた騒めきだった。
「ああ、やはり」
「ベルマー令嬢が選ばれるのね」
「ヴァンベルク嬢では、少し息が詰まりますもの」
奥歯を、静かに噛んだ。
隣ではフィオナ・ベルマーが口元を押さえていた。儚げな顔立ちの、社交界では物静かな娘として知られる男爵令嬢。少なくとも、この場を仕組んだ張本人には見えない。
だが、ああいう娘の隣に立てば、私は何もしていなくても冷たい側へ押しやられる。守ってやりたくなる娘の向かいに立つ女は、それだけで悪役の場所を与えられるのだ。
それでも、誰もこの神託をおかしいとは言わなかった。最初からこうなるはずだった、とでも言いたげに。
「……殿下」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
エドガー殿下がこちらを見る。ほんの少しだけ眉を寄せたその顔にあったのは、困惑ではない。面倒ごとに巻き込まれたときの、値踏みする前に答えを出した目だった。
何かが、引っかかった。
違う。驚いている顔ではない。最初からこうなると知っていた人間の顔だ。
「神託盤の表示に誤りがある可能性はありませんか」
私は盤から目を離さず言った。
「殿下と婚約しているのは、この私です」
空気がしんとした。静まり返ったのではない。周囲の温度だけが、私から引いていった。
「レティシア嬢。公の場だ。見苦しい真似はやめてもらおう」
その言葉は、幼い頃から庭園を歩き、舞踏会の前には私の手を取って「将来、隣に立つのは君だ」と言った人の声とは思えなかった。
「見苦しい、ですって?」
頬が熱くなる。泣くつもりはなかった。ここで涙を見せれば、私はただ神託に選ばれなかった哀れな女で終わる。だが今この場の空気は、すでに私をそれ以上のものにしようとしていた。
――神託に逆らう、思い上がった令嬢に。
「では伺います。昨年の冬至の夜、王家の温室で私に何をおっしゃいましたか」
二人しか知らないはずのことだった。婚約の正式公表前とはいえ、王家と我が公爵家の間で話は決まっていた。少なくとも私は、そう記された文書を見ている。
殿下は本気で分からないものを見るように首を傾げた。
「君と温室で長話をした覚えはない」
どこかで、小さな笑いがこぼれた。
足元が、音もなく崩れる。
「そんなはず――」
「下がりなさい、レティシア」
振り返ると、父が青ざめた顔で立っていた。怒っているのではない。困っているのだ。娘を庇うより先に、この場をどう収めるか考えている者の顔だった。
「お父様、婚約承認の文書が――」
「何を言っているの」
穏やかな王妃の声が、刃のように落ちた。
「王家が正式な婚約承認を下すのは、本日この場が初めてです。そうでしょう、神官長」
「左様にございます」
即答だった。疑う余地も与えない響きだった。
三年前の誕生日、父の書斎で私は確かに見た。白い羊皮紙に王家の青い封蝋。父と母が表情を抑えながらも安堵していたことまで覚えている。
だから今日の私は、ただの候補者ではなく、正式発表を待つ婚約者としてここに立っていた。
なのに、誰も知らない。
殿下はもう私ではなくフィオナの方を見ていた。彼女を安心させるように、何か低く囁いている。その仕草があまりにも自然で、胸の奥が軋んだ。嫉妬ではない。
自分だけが別の台本を渡されたまま、舞台に立っていたような惨めさと恐怖だった。
高位貴族たちの視線が刺さる。憐れみ、軽蔑、好奇心。今夜の酒の肴が増えたと喜んでいる者もいるだろう。
傲慢な公爵令嬢が、神託に逆らって恥をかいた、と。
私は一礼もせずに身を引いた。本来ならそれだけで非難される無礼だが、もうどうでもよかった。
礼儀より先に、確かめるべきものがある。
あの文書だ。
あれさえあれば、私の記憶が妄想ではないと証明できる。
王家まわりの婚約や任の承認は、神託盤が示した名に従って正式記録へ写される。それが王宮の作法だった。
ならば、どこかに痕跡が残っていないはずがない。
*
王宮西棟の記録室は、昼でも薄暗い。高い窓から差す光は細く、古い羊皮紙と乾いた蝋の匂いが、閉じた空気の底に沈んでいた。扉を閉める音だけがやけに大きく響く。
私は鍵を掛け、壁一面の棚から王家と高位貴族の婚約記録帳を引き出した。
指先が震える。こんな時まで震えるのかと、自分の体に少し腹が立った。
頁を繰る。乾いた紙の擦れる音が、静まり返った室内に小さく重なった。
古い縁組。王族の婚約。さらに次。
そして、私の名を見つけた瞬間、喉が詰まった。
レティシア・ヴァンベルク
婚約候補者登録
第三王子セオドール殿下 十歳時に解除
知らない。
第三王子など、片手で数えるほどしか会ったこともない。十歳時に解除など、なおさら聞いたことがない。しかも婚約“候補者”だ。私が探しているものとはまるで違う。
乱暴に次の頁を繰る。
第一王子エドガー。
婚約承認。
フィオナ・ベルマー男爵令嬢。
その文字は、ずっと前からそこにあったような顔で並んでいた。
私は無意識にその行へ指を触れた。
ぬるりとした違和感が走る。
はっとして手袋を見る。黒ではなく、濃い青のインクが、ごく薄く移っていた。
そんなはずがない。帳簿は半年前までの記録だ。乾いていないわけがない。
頁の端にある日付を見る。半年前。今日でも昨日でもない。半年前に記されたことになっているのに、私の指に移る。
軽いめまいを感じた。
私が狂っているのか、世界の方がおかしいのか。
残念ながら、私は自分をそこまで愛していない。だから先に疑うのはいつだって自分だ。緊張で記憶が混線したのか。殿下への執着が、ありもしない過去を綺麗につなげたのか。嫌な可能性はいくらでも育つ。
でも、三年前の冬の温室の匂いまで覚えている。霜を避けるために焚かれた香油の甘さも、ガラスを叩く風の音も、殿下が珍しく手袋を外していたことも。
あれほど具体的な記憶が、丸ごと偽物であるはずがあるだろうか。
私は帳簿を閉じ、脇の文書箱を開いた。王家との往復書簡の控えだ。封を切った覚えのある紐をほどき、一番上から確認していく。古紙の匂いがわずかに立ち、指先に古い繊維のざらつきが残った。
季節の挨拶。舞踏会の出欠。寄付への謝意。
ない。
婚約承認の書簡だけが、そこだけ刃物で切り取ったみたいに、きれいに消えている。
代わりに、一枚の短い通知が挟まっていた。
――公爵令嬢レティシア嬢と第一王子殿下の私的接触を、今後は慎まれたし。
二年前の日付。差出人は王宮侍従長。
受け取った覚えはない。あったなら絶対に忘れない。忘れられる内容ではない。
「……何よ、これ」
婚約を失ったことが悔しくないわけではない。明日には社交界中が知るだろう。
公爵令嬢レティシアは、神託に逆らって虚言を弄した女だったと。
けれど、それ以上に怖かった。
私だけが別の現実を知っていて、その証拠が次々と塗り替えられていく。
そのことが、たまらなく怖い。
扉の向こうで、金具が小さく鳴った。
私は反射的に書類を隠して立ち上がる。鍵は掛けたはずだ。
「誰です」
返事はなかった。
代わりに、鍵の掛かったはずの扉が静かに開いた。




