第7章 聖戦 ―ジハード(Ⅱ)―
第7章 聖戦 ―ジハード(Ⅱ)―
穴の底の柔らかい土の地面に足がはまって転ぶが、すぐに立ち上がった。土の壁の表面から大きな土管が頭を突き出していた。きっと奴はこれを通って逃げたに違いない。卓は土管を抜けるとじめじめと湿った地下道に出た。苔と便所が混じったような臭いがする水路がある。水路を辿った先は楓川だった。潮が満ちているせいか水位が上がっていて、そのトンネルから川岸に出ることは出来なそうだった。楓川へ出る手前に分かれ道があり、今行ったほうとは別の道を進んだ。十数メートル置きに灯されたライトの明かりを頼りに地下道を進む。ライト周辺だけ照らされた地下道の壁面が見える。その照らされた汚い壁には沢山の黒い物が蠢いている。長い触覚の生えた世にも忌まわしく醜い生き物。それは無数のゴキブリだった。卓が歩を進めていると、ときどき何かを踏んで、べちっ、ぶちっと音がし、嫌な感触が足裏に走る。地面を這うゴキブリや害虫を踏んづけてしまっているのだろう。かさかさ、がさがさ、ごそごそ…。嫌な虫たちが壁を這う耳障りな音。排泄物の悪臭と無数のゴキブリたちの気配。べちっ、ぶちっ、ぶちゅっ。一歩歩く度に何かを踏む。何か忌まわしい物を。堪えきれなくなり、卓はとうとう水路に向かってげえげえ吐いた。
それから2、30分程歩き続け、ようやく外へ通じる梯子を見つけた。実際には2、30分という時間も方向感覚も無くなる地下道では永遠のような長さに感じた。梯子を上がった先は東楓3丁目公園だった。美船時計塔からすぐ近くの民家や寂れた商家に囲まれた小さな公園。ブランコとジャングルジムと半分地面に埋まった大きなタイヤの遊具がある。マンホールを開けて、外へ出ると久々に吸い込んだ外気で深呼吸した。
「ヒー、ヒョー」
その鳴き声を追って、通りに出ると、古びたスーパーマーケットとちょっぴり洒落たマーズカフェがある以外は日本の田舎町のどこにでもある寂れた景色の中に荘厳にそびえ立つ美船時計塔が見えた。
バロック様式のスコットランド風な尖塔。礼拝堂もある内部からは聖歌が聞こえてくる。その美しい旋律に吸い込まれるように卓は時計塔の正門の扉を開いた。美船時計塔はフィールズ・ティー社の博物館として一般開放されている。ほんのり茶葉の香が漂う薄暗い玄関ホール。アーチ型の天井にはシャンデリアがかかり、壁の燭台に灯された蝋燭の火の光が気分を和ませてくれる。ホールの中央から赤い絨毯の階段が伸び、十数段上がるとそれは左右二手に分かれて2階へ続いている。映画の中で見たことがあるような風景だ。タイタニックの船内?オーヴァールックホテルのコロラドラウンジ?スペンサー邸にも似ている。
博物館や礼拝堂見物といきたいところだが、卓はホールの階段裏手に向かった。そこには時計塔の裏の庭園に続く出口がある。
金のノブのついた赤い木製の扉を開けると、噴水広場に出た。獅子や熊の形をしたトピアリーが並んでいる。市民の憩いの場である美しい庭園だが、今はそこに似つかわしくないものがいる。噴水のそばから鵺がにたりと笑っているようなしわくちゃな顔で牙を立ててこちらを凝視している。
「いやがったな」
卓はスリングショットを構える。
「ヒー、ヒー、ヒョー!」
いつもより甲高い鳴き声を上げる鵺。卓がベアリングボールを撃つ。だが、その鉄の弾は鵺の背後のトピアリーに当たり、数枚の葉と細かい木の枝が砕け散った。もう一発放つ。また外した。辺りを駆けまわる鵺。人間の足で追いつける速さではない。ときおり卓のすぐそばを駆けていく鵺。まるで追いつけない卓を愚弄しているかのように。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
また幻聴が始まる。
うるせえ、うるせえ、うるせえ。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
卓の視界の中にまたあのスフィアが浮かんできた。半流動体の奇妙な物体。円形だったそれは変形し、いくつもの突起が表れ、突起一つ一つに目と鼻と口が形成され、沢山の醜い顔が出来上がる。それらの顔が全部卓を見ている。そして、声を発する。
“お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い…”
耳を塞ぎたくなるのを堪え、鵺がまた卓のそばを駆け抜けようとしたとき、卓は担いでいたバットケースからバットを取り出し、フルスイングした。硬い金属の棒が生身の肉を打つ鈍い音がした。
ぎょえぇぇぇぇあぁぁぁぁぁっ!!
悲鳴を上げる鵺。怪我を負った化け物は庭園を囲っているトピアリーを飛び越え、林の中へ逃げていった。変形したスフィアは依然と卓に迫る。いくつもの醜い顔が迫る。
“お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い…”
うるせえ、うるせえ!やめろ!卓は耳を塞ぐが、声は全く納まらない。沢山の醜い顔の全ての目が銀色に光り、卓の生気を吸い取っていく。徐々に体の力が抜けていく。手にもっていたバットがぽろりと手から地面に落ちる。白い光が見えた。卓は芝生の上に倒れこみ、彼の意識は遠のいていった。
卓は家のベッドで目覚めた。いつもの朝だった。今日も学校か、怠いな。なんて思いながらベッドから起き上がると、トイレに小便をしに行き、顔を洗おうと洗面台の前に立った。鏡に映る自分の姿に愕然とする卓。身体中から血の気が失せ、顔がみるみるうちに青ざめていくのが自分でも分かった。鏡に映る卓の頭のてっぺんには髪の毛が無くなっている。なんで?なんでハゲになっているんだ?お洒落をしたい男子高校生にとって命の次ぐらいに大切な髪の毛を無くすことほどつらいことなど無いだろう。
「おい!なんでだよ?」
卓は両手の全ての指の爪で頭をひっかき回しながら、「わあああっ」と叫び、家の外へ飛び出した。やけに辺りが明るい。そして暑い。夏はとっくに過ぎたはずだが。空の色がなんだか、オレンジ、いや、ピンク色に染まっている。焼けるような暑さ。太陽が西の空にあり、東の空にもある。北の空にも南の空にも。全ての方角の空に目のくらむようなまばゆい太陽が輝いている。スーパー銭湯で何度か入ったことがある90度のサウナよりも暑い。滝のように流れ出る汗。いったい、どうなってんだ。明順応により、やがて視界がはっきりしてくる。各方角の空で輝く巨大な炎。それらの真上には、天に向かって大きなきのこ雲がもくもくと上がっている。卓は、それらは太陽なんかじゃないとようやく気付いた。このとき、卓の頭に浮かんだのは黄色地に黒字の不気味なプロペラのようなマークだった。映画とかで見たことがある核兵器のシンボル。世界が消えてしまった。
卓ははっと目を覚ました。そこは美船時計塔の庭園だった。巨大な炎もピンクに染まる空も無い。頭上には真っ黒で星々が輝く秋の夜空だけがあった。卓は気を失っていたようだ。それにしても、なんて嫌な夢だ。朝起きたらハゲになっていて、美船以外の全世界が核戦争で滅ぶ夢を見るなんて。卓は時計塔の庭園を出て、町の郊外の林道を歩いた。それは楓沼のほうへ続く林道だった。
「ヒー、ヒョー」
町の北の方から鳴き声がした。廃工場や給水塔が並ぶ細い道を歩くが酷い疲労感があり、卓はぼろぼろの小屋のそばに乗り捨てられたポンコツ車の後部座席に横たわり、また眠った。




