第8章 俺は醜くない
第8章 俺は醜くない
早朝、卓が再び歩き出したときはまだ辺りは闇に包まれていた。不気味なくらいの静寂に包まれた林道。ときおり、風に吹かれた杉の木や雑草がかさかさと音を立てる。山から降りてくる薫風が心地よい。さらさらと流れる川のせせらぎが聞こえてくる。楓沼から楓川に流れていく水の音だ。また廃工場が見えてきた。そこも通り過ぎ、何箇所かの給水塔も通り過ぎる。林道が山道に変わっていく。山肌から湧き出している水が土の地面を削り、天然の水路が出来ている。卓は湧き出してくる水を両手ですくい、顔を洗った。そして、両手いっぱいにすくった水をごくりと飲みこんだ。心地よく冷たい水が喉から胸へ、胸から腹へ、そして全身に浸透していくようだった。
「ヒー、ヒョー」
近くから鳴き声がした。卓は辺りを見渡す。真っ暗だった山道だが、辺り一面に存在する草木の緑色がはっきり見えてきた。東の空が薄明るくなってきているせいだ。もうすぐ日が昇る。卓はとうとう楓沼に辿り着いた。
湖の水面の上空10メートルほどの低いところに不気味にぷかぷか浮いている雲に乗った鵺が銀色の眼を卓のほうへ向ける。いやがったな、化け物。卓はスリングショットを構える。ベアリングボールを放つ。鵺のイノシシのような胴体の脇腹に命中する。
ぎょえぇぇぇぇあぁぁっ!!叫ぶ鵺。卓はもう一発放つ。外した。また一発。また外した。
「ヒー、ヒー、ヒョー!!」
鵺も抵抗し、鳴き声を上げる。辺りの木々や湖のほとりに置かれたベンチなどあらゆるものに目、鼻、口が形成される。文字通り、全てのものに顔が表れ、
“お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い…”
と地獄のコーラスのような、呪文のような言葉を発する。壊れたラジオから発せられるようなかさかさとした声。醜形恐怖で胸がむかむかしてくる卓。身体醜形障害を患った容姿の良い人間は自分の外見について悪く言われることを何より嫌う。心がこの世のあらゆる無数の醜い顔で形成されたブラックホールに吸い込まれていくような心地だった。
「負けるかあぁぁぁぁっ」
卓はまたスリングショットを構え、鉄の弾をぶっ放す。外した。またぶっ放す。また外した。なぜ当たらない。
“お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い”
不気味なコーラスは続く。
“お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い…”
「俺は醜くない!!」
卓は叫んだ。スリングショットをまた構えなおし、ベアリングボールをぶっ放す。
ぎょえぇぇぇぇぇぇぇぇぇあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!
鵺が悲鳴を上げた。スリングショットで放たれた鉄の弾が鵺の片目に命中し、眼球が砕け散ったのだ。鵺は断末魔の叫びを上げながら、雲から湖に転落し、水面でばしゃばしゃもがく。やがて鵺はごぼごぼと音を立てて溺れ死んだ。
水面に浮かんだ化け物の死骸が赤くまばゆい光を発し始めた。死骸周辺の水面が割れ、湖のほとりで地響きが起きる。ただならぬ様子に危険を感じ、卓は一目散に突っ走った。
楓沼を離れ、町を駆け抜けた。地響きは続いている。背後で大爆発が起きた。卓が耳で聞いた音はドッカーンではなく、“ぶんっ”という空気を真っ二つに裂くような形容しがたい音だった。その直後に爆風に背中を押され、一瞬、100メートルを8秒台で走れるのでないかと思えるようなスピードで卓は家々の間を駆け抜けた。卓はスピードに乗っていたから吹っ飛ばされなかったが、その近くで犬を連れて早朝の散歩をしていた馬場昭雄という爺さんが愛犬諸共吹っ飛ばされ、民家の壁に激突した。爺さんも犬も酷い打撲傷を負った。別の場所では、地響きで起きてしまい、何事だ?と、家を出てきたタバコ屋の93才の婆さんは爆風に巻き込まれ、尻もちをつき、小便を漏らした。そのままその日の朝に孫に発見されて助けられるまで立ち上がれずにいた。楓川の川岸で焚火をして夜更かししていた4人の男子大学生は仲良く一緒に吹っ飛ばされ、川に転落した。どこまでも吹き付ける爆風。美船の森スポーツ公園のそばの交番から大野隆二という中年のお巡りが外へ出た。楓沼辺りの上空が赤く光っている。あれはいったい、何だ?大野は夜勤を終えたら家に帰って出勤前に買ったポルノ雑誌を観るのを楽しみにしていた。退勤時間が迫り、どきどきわくわくで、にやにやして、既にお巡りのユニフォームの股間部分はテントを張っていた。大野は爆風で飛んできた木片に頭を打ち、気絶した。数分後、救急隊が駆けつけて、仰向けで大の字で股間を膨張させた無様な姿で彼は発見された。
巻き込まれてたまるか。卓は突っ走った。どこまでも。
「卓、こっちだ」
どこからか、声がした。男の声。よく知っている声だ。
卓が走っていく先に羽田翼の姿があった。
父ちゃん!?
「こっちだ、卓」
死んだ父が手招きをしながら卓をいざなう。何もかもを吹っ飛ばす熱風が卓の背後に迫る。
「お前なら逃げきれる。大丈夫だ。走れ、卓」
父の暖かい声がそう言う。
父ちゃん、なんでここに?死んだのに。父に問いかけたいが声が出ない。もう息が切れそうだ。腿の裏に痛みが走る。走りっぱなしで酷使された筋肉が思い通りに動かなくなっていく。
無理だよ、父ちゃん。もうキツイよ。
「大丈夫だ。お前は俺の子なんだから。昔、悪霊を負かした俺の子なんだから」
父ちゃん…。
気づくと、父の姿は目の前から消えていた。卓は町の最南端に到達し、美船ゲートブリッジを渡った。そのときには日が昇り始め、黄色い朝日が輝きだしていた。爆風は納まり、卓は町外れの芝生の上に息を切らしてくずおれた。美船市全域が煙に包まれ、灰が降り注いだ。赤く染まる空。町の上空にもくもくと上がる煙が一瞬、醜い顔を形成する。
だが、それは数秒で消滅した。卓の視界の中のスフィアも悲鳴を上げて、溶けて無くなった。やがて赤い光は消え、日はどんどん登っていき、空は真っ青に澄み渡った。魔物は爆発して消滅した。
卓は呼吸を整えると、晴れ晴れとした気分になり、立ち上がった。
ウーウー。ピーポー、ピーポー。カーン、カーン。
町の所々から消防車や救急車のサイレンが鳴り響いた。走ってきた美船ゲートブリッジを再び渡り、卓は町に引き返した。路地のミラーに映った自分のハンサムな顔を見た。
「俺は醜くない」
身体醜形障害を克服した卓はゆっくり歩いて家に帰った。
美船市に住みついていた化け物、鵺。その鳴き声に含まれる音波に精神を狂わされた人々は皆何かしら心の悩み、人には言えない秘密、性癖、持病、障害、コンプレックスなどを抱えていた。
果たして、
鵺が本当の魔物なのか。
それとも…
鵺の鳴き声に含まれる特殊な音波が皆の心の中に潜む魔物を呼び覚ましたのか…。
―完―




