第5章 魔物 ―それは鵺(Ⅰ)―
第5章 魔物 ―それは鵺(Ⅰ)―
全く、なんなんだよ、あの宮下とかいう女子は。身体中に虫を引っ付けて気持ち悪いったらありゃしない。彼女が手に持ったゴキブリの手足や縞模様の腹の筋が蠢く様子が卓の脳裏に焼き付いた。卓は小さい頃からゴキブリが大の苦手だった。
5歳のとき、お気に入りだったパトカーとフォードのトミカでよく遊んでいた。左手でシルバーのフォードを走らせて、右手でパトカーを走らせる。卓の頭の中で上映されている映画の中ではフォードに乗った悪い奴をパトカーが追いかけ、延々とカーチェイスが続くのだった。そのフォードに乗った卓の空想上の悪い奴はゴミ男という。ゴミ男は河童のように緑色の体をしていて、ぎょろりと大きな赤い目玉と鋭い牙を持っている。ゴミをちゃんとゴミ箱に捨てないで、その辺にぽいと捨てたり、ゴミを投げて友達にぶつけたりする悪い奴だ。「ウーウーウー、ピーポー、ピーポー」サイレンを真似た甲高い声で叫んでいた5才の卓。フォードが壁に差し掛かる。保育園児の頭の中では部屋の中のそこらの家具や壁は高層ビルとして扱われる。「キキキーッ!」ゴミ男は急ハンドルで曲がり、ビルの壁すれすれに突っ走る。「バンッ、バンッ」やがて警察は発砲を始める。
ある日の保育園のおやつの時間に大嫌いだった昭雄という同じキリン組の子が卓のポッキーを2本とって食べてしまった。「ダメ」といっても意地悪な昭雄は卓のおやつを食べようとした。だから、卓は食べ終わって空になったフルーツゼリーの容器とプラスチックのスプーンを昭雄に投げつけてやった。ゼリーの容器もスプーンも昭雄の頬や頭に当たり、彼はわんわん泣き出した。怒っていた卓はポッキーの包装袋もその辺にぶん投げた。キリンの顔の飾りが付いた緑のエプロンをつけた湯浅先生がやってきて、卓はこっぴどく叱られた。「ゴミを投げてはいけません!どうしてゴミをお友達にぶつけたりするの?」もとはと言えば、昭雄が意地悪をしてきたことから始まったのに、かんかんに怒っている先生に何て言ったらいいのか分からなかった卓は泣き崩れて昭雄に謝った。その日のお昼寝の時間に子供ながらに罪悪感があり、眠れずにタオルケットに潜ってもぞもぞしていたとき、卓の頭の中でゴミ男という怪物が誕生したのだった。
びゅんとフォードのトミカを押し飛ばすと、フォードはリビングからキッチンのほうへ行き、冷蔵庫と食器棚の間の隙間に入っていってしまった。卓の父、羽田翼はタバコを吸いながらソファに座って新聞を読んでいた。母の和江は夕飯の支度中だった。卓は冷蔵庫と食器棚の間の隙間に手を伸ばした。そこにはゴミ男が乗るフォードがあった。フォードは黄色い壁で赤い屋根の家のようなデザインの箱にぶつかっていた。隙間からトミカを取り出すと、卓はその箱に手を伸ばした。おうちみたいな箱。なんだろう、何か面白いものが入ってるのかな。例えば、小さな人形の家族がその中に住んでいるとか。それとも、美味しいお菓子だろうか。そう、中にピーナッツの入ったチョコレートとか。赤というデザインが卓にチョコレートを彷彿させたに違いない。箱の表面に描かれた窓から触覚の生えた可愛らしい茶色いキャラクターが覗いている。なんだか、両端に隙間の空いたその小さな箱をとうとう取り出し、わくわくしながら上蓋をぱかりと開けてみる。ぱっと見、色こそは卓が思い浮かべたチョコレートに似た無数の物体が箱の内部のべたべたしたものに張り付いている。これは小さな人形の家族でもチョコレートでもない。5才児でもそれくらいは分かる。長い2本の触覚ととげとげした6本の脚がついた醜悪な茶色い無数の物体。大きいのから小さいのまでいる。そのうちの数匹はまだ生きていて、脚をばたつかせてもがいている。ウルトラマンに出てくる凶悪な怪獣を思わせる醜い不快な茶色いモンスターたち。
「うわああああっ!」
卓は悲鳴を上げて、その箱を放り捨ててキッチンから寝室へ逃げていき、ベッドに潜り込んだ。「何してんの、卓!」母の和江は驚きの声を上げた。父の翼はゴキブリホイホイの中身なんかを覗いてびびって悲鳴を上げる息子を見て、腹を抱えて笑っていた。
高校生になった今でもトラウマで、卓はその日のことをよく覚えている。
ラレーのマウンテンバイクを飛ばし、土手を突っ走る。
走れ、ライガー、俺と一緒に走れぇ!やっぱり怖くなったときは自転車で突っ走るのが一番だ。風を切って。楓川を上流に向かっていく渡し船や河川敷で野球をやっている少年たちのほうを眺めた。前方には美船の森スポーツ公園内の林と陸上競技場が見える。頭上には真っ青な晴れ渡った空。幾分か気分が晴れた。卓が走っている土手の道の先のほうに黒いサングラスをかけた体格の良い男の人が立っている。それは卓のよく知っている人だった。そのマッチョは両手をジーンズの尻のポケットに突っ込んで空をじっと見上げている。
「あ、大須賀先生!」
彼の担任であり、部活の顧問の先生だった。
「また練習サボって帰るのか、羽田」
空を見上げたまま、そっけない口調で言う大須賀。
「すみません、どうも気分が優れなかったんです」
怒声が飛んでくるのを覚悟して身構える卓。だが、さっき卓が抜け出してきた陸上部はまだ練習中のはずだが、なぜ顧問の先生がこんなところに?なんて疑問が浮かんでもいた。
「よく分かるぞ、羽田」
意外な返答が返ってきた。
「えっ、分かるって何がですか?あと、先生どうしてここに?」
訳も分からず訊ねる卓。
「今日の練習は各自で自主トレーニングにしといた。君の気分が晴れないのはあいつのせいだろう」
依然と空を見上げたままの大須賀はそっと腕を上げて空を指さした。卓は担任が指さす先を見るが、まばゆい太陽のせいで目がくらむだけだった。
「先生…空にいったい何があるんですか?」
大須賀は黙ったままガーゴイルのサングラスを外し、
「ほれ」
と卓にそれを差し出す。卓はサングラスを受け取るとそれをかけて空を見上げた。幾分か暗くなった視界の中に不気味な生き物が宙にぷかぷか浮いているのが見えた。
あれはいったい…。頭が猿、体がタヌキ、尾は蛇、手足は虎といった毛むくじゃらの生物。銀色の目をした猿。卓が家のベランダで見たあの化け物じゃないか。そうだ。あいつだ。




