第5章 魔物 ―愛葵ちゃん(Ⅱ)―
第5章 魔物 ―愛葵ちゃん(Ⅱ)―
「あ…あおいちゃん?愛葵ちゃんて、誰だ?」
「私のおむつはいつも愛葵ちゃんが替えてくれるの…」
ぼんやりとして、かすれた声でうわ言を言い、にたり微笑む花香。気味が悪くて、卓はすぐにでもその場を去りたいという衝動に駆られた。
「おむつ…?」
「うん」
花香はジャージのズボンを下ろし始めた。その下に履いていたものは15才の大人になりかかった女の子が履くようなものでは無かった。白くてもこもことした紙おむつが彼女の尻と股を覆っていた。花香は椅子に座りこんだまま、また股に手を当て、ゆっくりさすりだした。おむつの股の真ん中の部分についた本来は黄色い線が青く変色している。それは文字通り“おもらしサイン”である。
「愛葵ちゃん、愛葵ちゃん…」
うわ言を言いながら、女子マネージャーはオナニーをしている。身体醜形障害に陥って自分を醜いと思い込むようになって、女の子と話も全然出来なくなって以来、卓にとって唯一の女の話し相手だった花香のそんな醜態を見て、愕然なんていう感覚は通り超し、胸がむかむかとした。卓は自分のアディダスのエナメルバッグを取り、部室を飛び出した。気分が悪い。帰ろう。もう、部活なんか糞食らえだ。
福島花香は毎晩、フラッフ・ハグというお気に入りの抱き枕を抱いて寝ている。花香はその抱き枕を愛葵ちゃんと呼んでいる。愛葵ちゃんはふわふわしていて、もちもちで、温かくて、一緒に寝ていると本当に落ち着く。幼い頃に実の両親を交通事故で亡くし、継母に育てられた花香は年齢の割には心労を重ねている。義兄の成亜がよく花香の胸や尻を触ってくるのが嫌で、自分の部屋の戸にはいつも鍵をかけている。義妹の郁美は自閉症で漏らし癖が酷い。継母は、学校に行く年齢になってもおむつがとれない郁美の世話を未だにしている。実の親にお世話をされていた頃の記憶が薄い花香は郁美のことを羨ましく思っていた。いつからだったか、彼女は郁美のおむつを盗んで履くようになった。今となっては、花香の部屋のクローゼットの中はパンパースにライフリーにおしめ布など、こっそり集めたコレクションでいっぱいだ。ふかふかなおむつを当てて、ベッドで横になって愛葵ちゃんを抱いているときが何よりの至福の時間だ。抱き枕をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの生地に頬をすりつけて、心地よく暖かい布団の中にいると、それだけで天国に登っていきそうな気分だった。体がとろけてしまいそうだ。花香にとって愛葵ちゃんは、甘えさせてくれるお姉ちゃん。ときにはおむつも替えてくれる。
「愛葵ちゃん…愛葵ちゃん…大好き」
ある晩もいつものようにそんなふうにして花香はベッドで横になっていた。そのとき花香はライフリーではなく布おむつを履いていた。おしめ布の上にはマリーちゃんの柄のおむつカバーを当てて、股と尻を包むほかほかと温かい心地を楽しんでいた。愛葵ちゃんというイマジナリーフレンド(空想上の友達)の膝の上に座って甘えているところを想像していたら、股がうずく感覚が走った。花香は四つん這いの姿勢になってフラッフ・ハグの抱き枕にまたがると、それに尻をつけて座った。布おむつを当ててぱんぱんに膨らんだスエットパジャマの尻と股の部分をフラッフ・ハグにゆっくり擦り付ける。体を前後に動かして。何度も何度も。もこもことしたおしめ布で股を刺激するのは花香にとってこの上ない快楽だった。興奮して目を閉じて、ふうっと大きく息を吐くと同時に口から粘液と化した涎が垂れて糸を引いた。
「花香」
誰かが後ろから彼女を呼び、肩に手を置いた。背中に温もりを感じる。花香は振り向く。そこには花香よりも大人のおねえさんがいた。花香が頭の中で思い描いていた甘えさせてくれるお姉ちゃん。愛葵ちゃんだった。美人で、温かくて、いい匂いがする愛葵ちゃん。それからほぼ毎晩のように愛葵ちゃんは夢に出てきた。いや、夢なのか、本当に表れたのか、花香には分からなかった。何度も愛葵ちゃんに抱き着いて甘え、おむつを替えてもらった。いつしか彼女は空想上の“友達”以上の存在になり始めた。フラッフ・ハグを抱きしめながら花香は
「ママ…ママ…」
と囁きながら頬を擦り付けていた。
気づくと花香は陸上部の部室の長椅子の上で横になっていた。なんで自分はここに?さっき部活仲間の羽田卓にここに連れてこられたのはなんとなく覚えている。ここ数時間、ずっと夢見心地だった。体を起こす気も起きない。とても眠い。誰かがそっと花香の頬に触れた。暖かい手の感触。そっと目を開けると、愛葵ちゃんがそこにいて微笑みかけている。花香も微笑み返す。花香が再び眠りに落ちる直前、愛葵ちゃんの目が銀色に光ったような、そんな気が。気のせいだろうか?そして、
「ヒー、ヒョー」
部室の外で何かが鳴いている。開いた窓から一瞬、猿のような顔をした毛むくじゃらな四足歩行の生き物がたったか走って学校の敷地の外の林の中へ入っていくのが見えた。
学校を出た卓は一目散にマウンテンバイクで寂れた町を突っ走った。楓川の土手に続く上り坂を上がろうとしたら、道の脇の芝生にクラスメイトの宮下真希子がいて、
「羽田くんじゃん」
と声をかけてきた。
「よう」
卓も挨拶を返す。相変わらずチョウチョの形をしたカチューシャをつけて、げっそりやせこけて青白い顔をした変な女。だが、今日はもっと変だった。宮下が着ているシャツとスカートの所々についた洒落た模様がうにょうにょと蠢いている。よく見ると、それらは無数のダンゴムシ、ワラジムシ、ミミズ、ムカデ、カメムシだった。両手に一匹ずつカブトムシを持っているかと思いきや、カブトムシにしては手足の動きがやけにちょこまかと素早くて、長い2本の触覚が生えている。宮下はそれらを“見て見て!”と言わんばかりに卓のほうへ差し出す。うげっ、ゴキブリじゃないか。ただでさえ、幸が薄くて痩せぎすの宮下の全身に虫をくっつけた不気味な姿を見て卓の全身にざらっと鳥肌が立つ感覚が走る。警戒する猫のように髪の毛までも逆立ちそうな勢いで。
「うわあああっ」
卓は叫んで全速力で上り坂を上がり、自転車を飛ばした。




