第5章 魔物 ―愛葵ちゃん(Ⅰ)―
第5章 魔物 ―愛葵ちゃん(Ⅰ)―
10月。
また行方不明の生徒が出たというのに、学校はただ1時間の全校集会を開いて、校長が話の最後に“下校中は寄り道をせずに気を付けて帰りましょう”と言っただけだった。
大人たちは何かを隠しているのでは。町で何が起きているのか知っているのでは。卓はそう感じ始めていた。このあいだ、ブルーノが「この町はどうなってんだ」と言っていた。町の外から来た人間から見たらなおさら美船は変な場所に見えるのだろう。まだ15才で、美船市で生まれ育った卓はちょっとした旅行や学校の修学旅行に行ったとき以外はあまり市外に滞在したことが無い。だから、この町の環境はずっと“普通”だと思っていた。他人からすれば明らかに臭う愛犬の体臭も飼い主には分からなくなってしまうのと同じだ。こんな噂を聞いたことがあった。美船市はこの地方の他の町と比べて、精神疾患を有する患者が多いそうだ。現に、町の外の森林地帯も含めて周囲6kmにも満たないこの地域に2カ所の更生施設があり、市の中心地である楓町を歩いていると“心のクリニック太田”、“メープルクリニック”、“心の相談室タマデラ”、“希望の家カエデ”といった看板や広告を所々で見かける。
卓が小学校1年生くらいの頃だったか、夏に父と母と一緒に海に行き、海の家で穴子丼やさざえの壺焼きを食べた日だった。美船ピアという長い桟橋の上に素っ裸で手足をタコのようにくねくね動かしてサンバのような踊りをしている中年の女の人がいた。「ねえ、あのおばさん、何しているの?」と卓が両親に聞くと、「見ちゃダメ」と母が手で彼の両目を覆った。そのサンバを踊っていた裸のおばさんは、先日、土手で見かけた聖書や自己啓発本に囲まれて人々の人生相談に乗っていたあのおばさんと同一人物に違いない。元々美しくなかった体が年をとって更に醜くなったものだなと卓は思った。
5年生くらいの頃だったか、母と東楓町にある英会話塾に入会手続きをしに行った帰り道、楓川の土手を歩いていると、1人の中年のおっさんが叫びながら羽田親子のそばを何かから逃げるように駆けていった。耳を塞いで「うるさい、うるさい、なんなんだよ!この獣が!やめてくれえ、俺は死にたくねえ!あんたはなんなんだ、タヌキか!猿か!」と喚き散らしていた。そんな狂った様子のおっさんを見て卓はくすくす笑っていたら、その時も母の和江は彼の目を手で覆って「見ちゃダメ」と言った。変な人間を見かけると、子供であれば誰でもあの人は何なのだろう、と疑問を抱く。場合によっては面白おかしくて笑いだす。場合によっては怖がって泣く。「どうしてあの人、変なの?」と聞けば、大人たちは誰でもただ「見ちゃダメ」と言う。
これもまた小学校時代だった。社会の授業だったか、町探検をして班ごとに新聞を作るという企画があった。それをクラスのみんなの前で発表するとき、卓の親友だった松野元輝が町で見かけた変わった人々のことを説明しだした。
「西木駅の壁に沢山のチョウチョの絵を描きながら楽しそうに笑っているおにいさんがいたよ。そして、たまでらアーケードのカリブという子供は入れないお店の隣のホテルの前で通りすがりの男の人の腕を引っ張って『私暇です!ここに連れてって下さい!』と叫んでるほとんど裸の可愛くない女の人がいたよ。そして、美船の森スポーツ公園に『みんな、逃げろお!蛇だぁ、あの蛇が襲ってくるぞぉ!』と大きい声で騒いでるお酒臭いおじいさんがいたよ。そして…」
と次に見かけた変な人の話をしようとすると、
「松野くん、やめなさい!もういいです。そういう人たちのことをじろじろ見てはいけません」
と当時担任だった黒崎先生は叱咤し、そこで松野の班の発表をやめさせ、次の班の発表を促した。松野の発表でクラス中が大笑いだった。黒崎先生はかんかんに怒った。
“見ちゃダメ”というだけで何も教えない大人たち。
人間の精神を狂わす何かがこの町には存在するのか?なんて疑問を抱きながら、卓は放課後の部活に励んだ。この間みたいにマウンテンバイクに乗ったり、部活で陸上トラックを走っているときは幾分か気分が晴れた。最近は記録を伸ばすことよりも、練習に参加するのは気分を晴らしたいからだった。150メートルの流しを走り終える。グランドの周りの木々が風に揺れる音とときおりミッション系大学のキャンパス内から聞こえる聖歌が耳に心地よく響く。市内の大会の日は仮病で休んでしまった。その日、朝起きてそそくさとシリアルを食べて、歯磨きをしようと洗面台の鏡の前へ行ったとき、その鏡に映った自分の吹き出物だらけの歪んだ顔を見た瞬間にやる気が失せてしまった。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
降り止むことのない雨のようにその言葉は卓の頭の中で繰り返される。いや、実際に聞こえているのか。もはや卓には分からなかった。幻聴なのか、霊の声なのか。
ウォーミングアップと流しを終えると、部員たちはそれぞれ個々の種目の練習に入る。トラックの内側の投てきのフィールドで郷野が砲丸投げの練習を始めていた。短距離選手の卓は100メートルのスタート地点からゴール地点にストップウォッチを持って立っている花香に手を上げて準備オーケーの合図を送る。
「ヒー、ヒョー」
そんな聞き慣れた不気味な鳴き声は無視した。
卓は手を上げるが、女子マネージャーは100メートルのゴール地点でなんだか俯いた様子で反応が無い。
「花香!」
彼女を呼ぶが、依然として反応は無い。
「どうしたんだよ?」
卓は他の部員たちの練習の邪魔にならないようにトラックを出てフィールド内の芝生を通って花香に駆け寄った。彼女のジャージの尻の部分はやけにこんもり膨らんでいる。華奢な体形の割になんてデカいケツだ。そう思いながら近寄っていく。
「おい、どうしたんだよ」
俯いた女子マネージャーの顔を覗く。花香は顔を赤らめてにたりと笑った。開いた口から涎が垂れて、それが糸を引いて地面に落ちた。はあ、はあ、と荒い息遣いの花香。尋常じゃない様子に絶句する卓。“大丈夫か?”と声をかけたいところだが、喉からは声の代わりにひゅう、ひゅうと息が噴き出すだけだった。目の前にいるこの女はいったい、どうしたというんだ?具合でも悪いのか。いや、そんなんじゃない。明らかに気分は良さそうだ。それどころか、うっとりしたような笑みを浮かべている。
「しちゃったの」
ようやく口を開いた女子マネージャーは突然、そんな一言を発した。
「な、な…何を?」
思わず言葉をどもらす卓。花香は答えず、顔を赤らめたままそっと手で撫でるように自分の尻や股に触れた。
「何してんだよ」
何だか分からないが、“普通”の様子じゃない女子マネージャーをとりあえず部室へ連れていこうと思い、卓は花香の腕を引っ張った。
「来い」
恍惚として自分の股を押さえ続ける花香は何も言わず卓に従う。傍から見たら小便を我慢している小さな子供のようだった。郷野や他の部員たちは、卓に腕を引っ張られて部室のほうに向かっていくそんな女子マネージャーを怪訝そうに見ていた。2人が陸上部の部室に入ると、卓は部室の戸を閉め、花香を長椅子に座らせた。
「どうしたんだ?」
改めて聞く。顔を上げる花香。
「大丈夫。もうすぐ愛葵ちゃんが来てくれるから」
そう答える花香。




