第4章 変人街(Ⅰ)
第4章 変人街(Ⅰ)
卓は美船市の北側の入り口であるトンネルを抜けて海岸沿いの国道127号線を走った。屋根も壁も真っ白な大きい家が並び、パームツリーがところどころに生えたちょっぴり異国っぽい雰囲気な玉寺町の歩道に変な女の人がいた。見た感じ、20代前半から半ばくらいのその女はストローのようなものを口にくわえて蝶のように手をパタパタと振りながら歩道の脇の植え込み周辺をのろのろと行ったり来たりしていた。彼女は植え込みの前で立ち止まり、そこに咲いているコスモスの花々にくわえているストローの先端をつけてちゅうちゅう音を立てて吸い始めた。いったい、何やってんだ、あの人。うつろな目をした女。夢遊病か?卓はその人の前を通り過ぎるまでその様子を見るが、それほど気に留めず、マウンテンバイクで走り続けた。
日も暮れかかり、人通りの少なくなってきた楓町の玉寺アーケードに入ると、路上に布団を敷いて寝ている爺さんがいた。この町にホームレスなんていただろうか。いや、その爺さんはホームレスというよりも町が自分の家の一部であるかのように堂々と道の真ん中で寝っ転がっているのだ。アーケード内は魚屋も八百屋もシャッターを下ろし始めている。日が暮れてもやっている店はレンタルビデオ屋とコンビニとミフネシアターくらいだろう。
アーケードから路地に曲がり、住宅地に入ると、カレーや揚げ物の香が漂っていた。どこかの家で支度中の夕飯の匂いだろう。たったの2日間だったが、逃げて出て行った故郷も旅をして帰ってきてみると、少しほっとして、ここは悪くない場所だと卓は感じた。先ほど見かけた変な人たちを除けば、町の寂れた景色はいつも通りだった。卓は線路に面した通りに出た。楓町駅を出た美船電鉄が西木町方面に向かって、マウンテンバイクにまたがる卓の横を通り過ぎた。小さな2両編成の赤茶色の古びた電車。
「ヒー、ヒョー」
あの鳴き声がして、自転車を漕いで風に乗りながらも背筋がぞっとして、卓は辺りを見回す。だが、周りには何者もいない。見えるのは、夕日に照らされてまどろむ町だけ。
楓町を抜けると楓沼という地名になる。近くに楓沼という沼というか、湖があるからだ。規模が小さめのアウトレットがある以外は特に目立ったものは無い場所だ。そこを過ぎると、東楓町。こんな日本の首都圏の辺境の地にあるとは思えないようなバロック様式の荘厳な美船時計塔がそびえ立っている。卓がその建物を見上げた途端に、ゴーン、ゴーン、ゴーン、と鐘が鳴り出した。午後6時を告げる鐘。楓川が見えてきて、川の向こう側のフィールズ・ティーの工場地帯を眺めながら土手を走って、家を目指した。旅の疲れと、帰ってきた、という安堵感。だが、どこかにあのスフィアが変形したヒューマノイドが潜んでいるのでは、という不安と憂鬱もあった。あの紫色の醜い生物。それを思い出した途端に、
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
旅をしている途中は忘れることが出来ていたあの声がまた聞こえてきた。
「ヒー、ヒョー」
黙れ。うるさい、うるさい、黙れ。耳を引きちぎって捨てたい。
卓は土手でマウンテンバイクを降り、それをスタンドで立てることもせず、道の脇の芝生に倒して、耳を押さえて地面に突っ伏した。もう、かんべんしてくれ。なんなんだよ。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
「わかったよ。でも…、俺はそんなに醜いか?」
つい声に出す卓。胃の辺りが痛んだ。胃から下腹部にかけてが絞られるような感覚。ずっと自分のことを美男であると信じてきた卓が本当に自分は醜いと思い始めていた。彼はなんとか立ち上がり、よたよたと河川敷に下りていき、岸でしゃがんで楓川の水面に顔を近づける。川のゆらゆら動く水面に映る自分の顔は、目が大きくなったり、小さくなったり、口や鼻も大きくなったり、小さくなったりしている。なんて歪んだ顔だ。確かに醜い。水面に映る自分の顔にも大きなニキビが沢山できている。
はあ、と溜め息をついて立ち上がり、また土手に上がってマウンテンバイクにまたがった。走り出すと、視界の先にまたまた奇妙な光景が見えてきた。土手に全裸の女がいる。とはいっても、その女を見ても卓の股間にぶら下がっているイチモツがうずいたり、膨張したりすることは無かったが。裸の女とは言っても、みすぼらしくたるんだ乳房、腹や尻や腿にぶよぶよとした脂肪がたっぷりついた50代くらいのおばさんだったからだ。若作りをしていないごま塩の髪の毛で、真っ白で醜悪な体をしたそのおばさんの周りには人だかりが出来ている。その人たちはみんなすすり泣いたり、笑みを浮かべたりしている。裸のおばさんの周りには沢山の自己啓発本やら聖書やらといった類の書物が積み上げて置いてある。みんなの人生相談でもしているのだろうか。
「みなさん、ありのままの姿でいましょう。神の御心のままに。そうです。生まれたままの姿でいるのです。神の御心のままに。それでこそ人間は美しくいられる」
太ったおばさんはしわがれた声でそう皆に言い聞かせている。
気持ち悪いな。豚のようなババアの裸に嫌悪感しか無かった卓は家に帰ったら、口直しに松浦亜弥の写真集でも眺めよう。なんて考えながらそこを通り過ぎると、突然、走り続ける卓の前に人が飛び出してきた。肌の色が浅黒い外国人だ。口から心臓が飛び出しそうなくらいに驚いて急ブレーキをかける。マウンテンバイクの後輪が浮いて、危うく卓の体が前方にすっ飛んでいきそうになった。
「は…羽田くん!」
その飛び出してきた男が言った。その南米系の男は卓と同じクラスで授業を受けている留学生だった。
「おう、ブルーノか。急に飛びしてくんじゃねえよ、危ねえだろ」
「ご…ごめんなさぁい」
「ったくよ」
ブルーノ・グエズの顔は青ざめていて、汗だくでびくびくと怯えている。
「どうしたんだよ?」
卓が聞いた。
「俺…もうブラジルに帰りたくてしょうがない。いったい、この町はどうなってんだ」
「ああ。確かに変だよな。さっきから、なんだか奇妙な奴ばかり見かけるよ」
「クラスの連中にしたって、ぽ、ぽ、ぽんこつな人間ばかりで俺まで気がへ、へ、変になりそうだよ。この町はな、な、何かおかしい。なぜだか、分かるか?君はず、ずっとここにすぅ、住んでるだろ」
顎をがくがく鳴らしながら言葉がどもっているブルーノ。
「いや、俺にもさっぱり分からんよ」
「ヒー、ヒョー」
不気味なトラツグミのような鳴き声が響き渡った。
「わぁっ」
ブルーノは叫び、手で耳をふさいで駆けだした。
「おい、どこ行くんだよ」
卓がそう言ったときにはブルーノは土手を駆け下り、彼の姿は暗くなった西木町の路地へ消えていった。
卓は家に着くと、庭でご主人様の帰りを待っていた忠犬としばらくたわむれて過ごした。しっぽを振りながら腕や顔をぺろぺろなめてくるキクはいつも嫌なことを忘れさせてくれる。




