第3章 醜形恐怖症(Ⅲ)
第3章 醜形恐怖症(Ⅲ)
クロスバイクでただただ国道を南に向かって走った。その千葉南部の海沿いの道はトンネルが多い。歩道がほぼ無い2車線の山道。猛スピードで走る大型トラックや車とすれ違ったときは体中がぞくぞくとした。トンネルを抜けるとアスファルトに帯状の光がさしていて、山肌や木々の間から覗く夕日に染まった空と海が見える。
2つ目のトンネルを抜けると、そこはもう市外だ。危険なトンネルを抜ける度に“生きてる”と実感した。保田や安房勝山の港や海岸の景色を眺めながら更に先へ走り続ける。「道の駅きょなん」の前を過ぎ、海岸に浮かぶように存在する真珠島が見えてくる。ここまで来たなら、もっと先まで行こう。卓はそう思った。
岩井辺りを通り過ぎる頃には、憂鬱な気分はだいぶ吹き飛んでいた。この辺の地域の山々は鰐の背中のようにぎざぎざしていて、崖の多い海岸線を眺めながら走っていると、異世界に迷い込んだような、そんな気分だった。潮と海藻の匂い。美船から離れれば離れる程、濁っていた心の窓が透明感を取り戻していく。ここではもはや、あのトラツグミのような不気味な鳴き声が聞こえることは無い。気味の悪い獣臭が漂ってくることも。爽快だ。卓は地平線の彼方に沈んでいく太陽を追いかけるように国道127号線を走り続けた。
日が暮れても卓は千葉南部の海岸線をマウンテンバイクで突き進んだ。足や体に疲労感が溜まってくるどころか気分がハイになっていて自転車を止めて休もうとか、来た道を引き返そうなんて気は一切起きなかった。
通り沿いにパームツリーが沢山生えた館山市の国道沿いのマクドナルドで腹ごしらえをした。ダブルクォーターパウンダーのセットでポテトは大きいサイズにして、ぺろりと平らげた。決して健康的な食事とは言えないが、これほどに美味いものはこの世に無いだろう。
ペダルを漕いでも漕いでも、不思議なくらい疲れなかった。夜になると館山の田舎の真っ暗な国道からは満点の星空を眺めることが出来た。花畑が広がっているとか、景色が良いと噂の房総フラワーラインも夜では何も見えない。漆黒の闇に包まれた大地の先の地平線が月明りのおかげでなんとか見えるくらいだ。どのくらいの距離を走ってきたかなんて意識することもないまま、山沿いの国道の先の闇の中でライトに照らされてそびえ立つ白い尖塔が見えてきた。あれは野島崎灯台だ。卓にとってはその建物の名前はおろか、自分が今いる場所の地名すら見当もつかなかった。まさに千葉の南の果て、房総半島の果てだった。
そこを過ぎると海岸線は太平洋側へ向かっていく。夜の不気味な漆黒の海と何億もの星が浮かぶ空の栄え目、その水平線をずっと眺めていると、その中へ吸い込まれていきそうな、そんな恐怖感が芽生える。時空の歪みの境界線のような。
後ろを振り返ると、遥か彼方の後方に人が暮らす市街地の明かりが見えた。“生の世界”だ。目の前に広がる人は住めない冷たい黒い海は“死の世界”だ。
いったい、自分はどこへ向かっているのか。卓には分からなかった。
千倉市の辺りまで来ると、卓はさすがに疲れた。マウンテンバイクを停めて、タイヤにナンバー式のロックを付けると、彼は海岸沿いの堤防を乗り越えて、背負っていたショルダーバッグを枕にして砂浜で仰向けに寝転がった。ざぶん、ざぶん、と波の音が聞こえる。星を眺めているうちにまぶたが重くなってきてそのまま卓は少し眠った。
辺りが薄明るくなってきた。夜明けが近い。卓は起き上がると、砂だらけになった背中や足を手で払った。
あれ?どうして自分はこんなところにいるんだっけ?
ざぶん、ざぶん。波の音。誰もいない海岸。浅瀬に何かが浮かんでいる。高さも幅も3メートル程の四角い物体。一見、店の看板のような形。でも、海岸になんでそんなものが?卓がいる堤防のそばからではそれが何なのかはよく見えない。卓は歩いた。砂浜を一歩一歩。ぷかぷか浮かんでいる四角い物体の表面に、卓の姿が映っている。卓と卓の後ろにある景色。堤防とその後ろの国道410号線沿いの錆びれた家々。鏡だ。その四角い物体は鏡だ。
なんでこんなところに鏡が?なんとはなしに卓はその鏡に映った自分自身を見た。なんだか、酷く老け込んだしょぼくれた顔の自分がいた。鏡の中の卓は目玉が銀色で、頭のてっぺんがはげている。うわあ、なんだこりゃ。卓は思わず自分の頭を両手で触る。つるつるとしている。あまりのショックで顔面蒼白する卓。スタイリッシュでナルシストな男にとって髪は命の次に大切なものである。それを失った卓は頭の両サイドにわずかに残った髪の毛をつかんだり、頭をかきむしったりしながら悲鳴を上げた。
「うあああああああああああっ…」
卓は飛び起きた。心臓がどくん、どくんと鳴っている。すかさず卓は自分の頭のてっぺんに手で触れた。ふさふさとした豊かな髪の毛が生えている。夢だった。安堵の溜息をつく。汗だくだった。額の汗をシャツの袖で拭い、立ち上がった。まだ辺りは暗い。海のほうを見てみると、浅瀬に四角い物体は浮いていなかった。なんて嫌な夢だ。卓は堤防を乗り越えて、マウンテンバイクのナンバー式ロックを解除すると、また走り出した。




