第3章 醜形恐怖症(Ⅱ)
第3章 醜形恐怖症(Ⅱ)
気分が優れない卓はこの日、ホームルームが終わると、そそくさと教室を出て、部活をサボって駐輪場まで駆けていき、ラレーのマウンテンバイクに乗った。コスモスやキンモクセイが咲き始めた花壇や植え込みの前をマウンテンバイクで駆け抜け、西木大通りを突っ走った。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
なんとなく、1人になりたかった。そして、風を切って楓川の土手を走った。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
相変わらず聞こえてくる不気味な声なんか無視して、突っ走る。
芝生と川岸の湿った土と潮の匂い。川のせせらぎ。神の手が背中を押しているかのような海からの追い風。気持ちがいい。
走れ、ライガー、俺と一緒に走れ!!
心の中で叫ぶ。加速するマウンテンバイク。小学生の頃に見ていたアニメのゾイドに出てきた主人公の愛機であるブレードライガー。青いライオン型のゾイド。卓は自分の青いラレーのマウンテンバイクに乗りながらブレードライガーを操縦しているバン・フライハイトと自分自身を重ね合わせていた。輝くブレードで悪魔を引き裂いてやるような気持ちで。
お前は醜い。…えは醜い。…は醜い。…にくい。…くい。
常に耳に鳴り響いていた気味の悪い悪霊たちのハーモニーのような声がこの時は薄れていくように感じた。いいぞ。消えてくれ。消えて無くなってくれ。
だが、スフィアは常に視界から消えない。彼を見つめる3つの目玉が平然とまたまばたきをした。
家に着いて、楓川学園のブレザーをベッドの上に脱ぎ捨て、制服を脱いでシャツとジーパンに着替えた。部活をサボって時間が出来たはいいが、ゆっくり部屋でDVDを観たり、ゲームなんてやってられるほど穏やかな気分ではない。
…い。…くい。…にくい。…醜い。…は醜い。えは醜い。まえは醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
さっきマウンテンバイクで土手を突っ走っていたときは遠ざかっていた声がまた追いついてきたように再び卓の耳に響き始めた。またか。勘弁してくれ。
卓は机の引き出しを開ける。そこには中学時代に遊んでいたサムライエッジのピストルのガスガンを入れてあった。それを取り出し、銃からマガジンを抜いて、ガスを注入した。マガジンにバイオBB弾を込めると、銃に装填する。部屋の窓を開けると、卓は宙に浮いたスフィアに向けてガスガンを構え、3発ぶっ放した。銃から強力なガスで放たれたBB弾が風を裂いてスフィアに命中する。ぴしゃっ。べちゃっ。半流動体のスフィアに穴が開き、毒々しい紫色と黄色の混じったような色の液体が飛び散る。穴はほんの数秒で塞がる。傷をつけても、スフィアには永久の再生能力があるようだ。卓は、今度はスフィアの忌まわしい3つの目玉を狙って撃った。1つの目玉に命中し、目玉が破裂すると、スフィアは今までは見せなかった大きな口を開き、獣の咆哮のような悲鳴を上げた。ガスガンの引き金を絞るように卓は何発もぶっ放し、残りの2つの目玉にもバイオBB弾を命中させ、潰してやった。スフィアは怒り狂ったような叫び声を上げ、球体だったそれは変形し始め、丸いスフィアに3つの突起が出来始めたと思ったら、それらはにょきにょきと巨大化し、3つの醜い顔を形成した。
「なんなんだよっ」
あまりの気味の悪さに卓の全身に鳥肌がざらっと立つ感覚が走る。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
卓はマガジンが空になったガスガンを床に落とし、家を飛び出し、またマウンテンバイクに乗って突っ走った。これに乗れば逃げられる。さっきこいつで突っ走ったらあの声が遠ざかった。絶対に逃げられる。
走れ、ライガー、俺と一緒に走れ!
また楓川の土手を突っ走って、橋を渡って安房美船村のほうへ行った。長屋や古びた家が並ぶ市内で一番寂れた場所だ。花香が確かこの近くに住んでいたっけ。それ以外で知っているところと言えば、住宅地と美船市営霊園の間にある空き地の中央に空いた“コンコロリン”と呼ばれている大きな穴。その穴に石を投げ込むと、コンコロリン、と音がするそうだからそう呼ばれている。その空き地の前を通り過ぎ、卓は霊園の杉の並木の道を走って、茶色い東屋の前でマウンテンバイクを止めた。水道水で顔を洗った。本当ならそばに沢山置かれていた“美船市営霊園”と書かれた木製の桶に水を汲んで頭からかぶってスカッとしたい気分だった。
…くい。…にくい。…醜い。…は醜い。…えは醜い。…まえは醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
逃げても逃げても、悪霊たちのハーモニーがまた聞こえてくる。
お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い。お前は醜い…。
声がどんどん近くなってくる。
卓は背後を振り返る。その途端に彼の全身から血の気が失せた。足元がふらつき、地面に尻もちをついた。目をかっと開いて、口を大きく開き、声にならない悲鳴を上げる卓。かはっ、かはっ、と声の代わりに息を吐くことしか出来ない。彼の目の前に広がっていた光景、それは墓石や杉の木に不気味な顔がついていて、それらが彼を見つめながら語りかけてくる。B級ホラー映画さながらの光景。
顔のついた墓石や杉の木が
「お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い、お前は醜い…」
と魔界から叫んでいるかのようなヨーデルじみた響きで訴えかけてくる。
墓石と杉の木についていた顔が全て歪み始め、それら全てが吸収されるかのように一カ所に集まり、スフィアが姿を表した。半流動体のスフィアは2足歩行の人間の形を成し始めた。さっきガスガンで撃ち抜いた3つの目玉が再生している。その頭と胸と腹に大きな目玉のついたヒューマノイドは歩き出し、卓のほうへ向かってくる。卓は立ち上がり、マウンテンバイクに乗って走り出す。5ギアで加速し、スピードに乗ってきたら今度は7ギアにして更に加速する。卓は後ろを振り返る。スフィアから進化したヒューマノイドはウサイン・ボルトもきっと青ざめてしまうであろうスピードで突っ走りながら追いかけてくる。くそったれが。なんなんだ、こいつ。
来た道を戻り、家に帰りたいところだったが、そうもいかない。卓は楓川の土手の果てまで突っ走った。緑のアーチがかかった美船ゲートブリッジが見えてきた。その橋に差し掛かると歩道の錆びた手すりが壊れている箇所があった。大川桃絵が転落した場所だ。だが、そんな事実を知る者はいない。既にこの世にいない彼女は今、世間では行方不明者として捜索されている。卓が美船ゲートブリッジを渡り切った途端に
「ヒー、ヒョー、ヒー、ヒー、ヒョー」
とあの鳴き声が響き渡った。卓は振り返るが、紫色のヒューマノイドの姿は無かった。
喉がからからだった卓はその町の最南端の場所にある道の駅でミフネリーフ・パンチというご当地のエナジードリンクを買って飲み、喉を潤した。しばらく出店のベンチに腰掛けてこれからどうするか考えた。夕方の17時。町はまどろみ始める頃。美船ゲートブリッジを渡って引き返す気になれなかった卓は再びマウンテンバイクにまたがり、国道127号線を町とは反対の方向に向かって走り出した。




