第99話「崩壊する嘘の帝国と、呪縛からの解放」
――もうもうと立ち込めるコンクリートの粉塵が、冬の冷たい夜風に流されていく。
破壊されたKEIRINグランプリのバンク。
ゴールラインの先で、砂煙の中から一つの影がゆっくりと立ち上がった。
鈴木だった。
彼の足元には、真っ二つに折れ、高熱でドロドロに溶けた自転車の残骸が転がっている。
時速100キロを超えた状態でのフレーム崩壊。本来なら全身の骨が砕け散り、肉塊となって即死しているはずの暗殺工作。
しかし鈴木は、防衛省で刻み込まれた【ミリ単位の等尺性静止】と、空気を蹴るほどの異常なペダリングによって、車体を失った状態のまま空中でバランスを保ち、無傷でゴールラインを駆け抜けたのだ。
数万人の観客で埋め尽くされた競輪場は、水を打ったように静まり返っていた。
落車を願い、罵声を浴びせていた彼らも、目の前で起きた「物理法則を完全に無視した奇跡」と、暗殺の罠すら己の肉体ひとつでねじ伏せた鈴木の姿に、言葉を失っていた。
それはもはや憎悪の対象ではなく、人智を超えた神話の領域だった。
「……鈴木くん!」
静寂を破り、シルバァ(3号)がバンクを駆け下りてきた。
彼は迷うことなく鈴木に駆け寄り、その巨大で異形な身体を、力強く抱きしめた。
「……シルバァ。僕は……生きてる」
「ああ、生きてる。君は走り抜いたんだ。誰の罠にも、誰の悪意にも屈することなく、君自身の力で」
シルバァの瞳から、温かい涙がこぼれ、鈴木の頬を伝った。
「僕は……もう、誰かを殺すための機械じゃないのか?」
「違う。君は最初から、ただ純粋に生きようとしただけの、心優しい人間だ。君のこの筋肉は、今日、君の命を守るために真の力を発揮したんだよ」
鈴木は、震える手で自らの太ももに触れた。
あの忌まわしいプレハブで、嘘と暴力のために作られた身体。だが今、この筋肉は自分を殺そうとした悪意から、自分自身の命を救ってくれたのだ。
鈴木の目から、これまで押し殺してきたすべての感情が、大粒の涙となって溢れ出した。
その頃。最上階のVIPルーム。
「バ、バカな……! 自転車が空中で折れたのに、なぜ無傷で走り切れる!?」
大門教官が、窓ガラスに張り付きながら絶望の声を上げた。
「……化け物め」
氷室元査察官は、血の気の引いた顔でモニターから目を逸らした。
「グランプリの車券はすべて紙屑になり、バンクは崩壊。さらに彼を殺すことにも失敗した。……大門、あなたはすべての責任を被りなさい。私は海外へ飛びます」
氷室は冷酷に言い捨て、パスポートと裏金口座のデータが入ったUSBを握りしめ、部屋のドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
だが、ドアを開けた先には、冷たい雨に濡れたコート姿の男――週刊誌記者の橘が、無数のフラッシュを焚くカメラマンたちと、険しい顔をした警察の捜査員たちを引き連れて立っていた。
「……海外旅行には、少し荷物が足りないんじゃないですか、氷室元査察官」
「橘……! 貴様、なぜここに!」
「あなたの裏帳簿データ、そして大門教官に『自転車に細工をしろ』と命じた音声データ。すべて、私の元に匿名の協力者(※シルバァ)から送られてきましたよ」
橘は、カメラのレンズを氷室の歪んだ顔に向けた。
「防衛省のロボット計画における巨額の横領、国交省との癒着による破壊工作、そして……鈴木選手に対する殺人未遂。ゲームオーバーです、氷室さん。あなたの嘘の帝国は、これで完全に終わりだ」
手錠をかけられ、連行されていく氷室と大門。
彼女が作り上げた搾取と欺瞞のシステムは、一人の青年の純粋すぎるペダリングと、一人の記者の執念によって、完全に瓦解した。
翌日。
日本中のメディアが、KEIRINグランプリでの「前代未聞の暗殺未遂事件」と、「氷室グループの完全逮捕」を一斉に報じた。
ニュース番組では、鈴木が仕掛けられた罠を筋肉だけで凌ぎ切る映像が何度も繰り返し再生され、世論は180度反転した。
『鈴木選手は、防衛省の汚職の被害者だった!』
『彼は何も知らされずに怪獣と戦わされ、最後は口封じのために殺されかけたんだ!』
『あの異形の筋肉は、国家の陰謀を一人で背負わされた悲劇の証だ……!』
これまで鈴木に投げつけられていた石礫は、一転して同情と称賛の嵐に変わった。
そして、氷室が違法な契約で鈴木に押し付けていた「850億円の借金」も、彼女の逮捕と組織の解体により、法的に完全に【無効】となった。
――数日後。
冬晴れの空の下、鈴木とシルバァは、あの四畳半のアパートの前に立っていた。
「……終わったんだね、シルバァ」
鈴木は、深く湾曲した背中を少しだけ伸ばそうとしながら、眩しそうに太陽を見上げた。
「ああ。君を縛り付けていた鎖は、すべて消え去った。借金も、防衛省の嘘も、もう何もない」
シルバァが、穏やかな笑顔で頷く。
「僕は、自由になったんだ……」
鈴木は、己の太ももを見下ろした。
もう、誰かに命令されてペダルを回す必要はない。見世物として罵声を浴びる必要もない。
「鈴木くん、これからどうするんだい? 君はもう、自転車に乗らなくても生きていけるんだよ」
シルバァの問いかけに、鈴木はしばらく黙り込んだ。
そして、ふと、あの極限のスピードの中で感じた「風」の感触を思い出した。すべてを置き去りにし、ただ前に進むだけの、あの静寂の世界。
「……シルバァ」
鈴木は、憑き物が落ちたような、とても澄んだ声で言った。
「僕の身体は、もう元には戻らない。普通の生活を送ることもできない。でも……僕はこの筋肉を、もう憎んでいないんだ」
「鈴木くん……」
「この脚が、僕を生かしてくれた。そして、君と出会わせてくれた。だから僕は……これからもペダルを回すよ。誰かのためじゃない、僕自身が『風』になるために」
怪物と呼ばれた青年は、初めて人間らしい、穏やかな笑みを浮かべた。
シルバァもまた、嬉しそうに微笑み、二人は並んで歩き出した。
重く苦しい冬の時代は終わりを告げた。
すべての因縁が清算され、鈴木は真の意味で「絶対王者」として、新たなスタートラインに立つ。
しかし、世界はそう簡単に美しく終わらせてはくれない。
真の平和が訪れた後、この「純粋すぎる圧倒的な暴力」が競輪界でどのような悲劇(喜劇)を生み出すのか。
すべての物語が結実する、最終話。
破滅(ギャグ路線)へのカウントダウンは、残り1話。




