第98話「グランプリの棺桶と、血に濡れた風の道」
――十二月。大晦日。
日本中の競輪ファンが一年で最も熱狂し、かつ最も憎悪を煮えたぎらせる祭典、KEIRINグランプリが開催されていた。
優勝賞金一億円。だが、今年のグランプリは異様だった。
車券の売り上げは過去最低。観客の9割が、鈴木の「落車」を願って会場を埋め尽くしている。
「殺せ!」「障害物を置け!」「あいつの自転車だけ細工しとけ!」
もはやスポーツの熱狂ではない。それは、一人の怪物を公開処刑するための憎悪の集会だった。
氷室元査察官は、VIPルームで最後の一手を打っていた。
「大門、鈴木の自転車のフロントフォークに、目に見えない微細な亀裂を入れなさい。時速100キロを超えた瞬間、彼の自転車は空中分解する。……もしそれで彼が死ねば、借金も消滅し、防衛省の汚点もすべて霧散します」
「……了解しました」
大門教官の手は震えていた。かつて、鈴木の神の脚に魅了されたはずの男が、今や自分の手で「神の最後」を演出しようとしていた。
地下の選手控え室。
鈴木は、シルバァが縫い合わせたつぎはぎだらけのユニフォームを着て、静かに目を閉じていた。
その時だった。シルバァが静かに近づき、鈴木の耳元で囁いた。
「鈴木くん。フロントフォークに亀裂が入っている。時速100キロで、自転車は二つに折れるだろう」
鈴木は目を開けなかった。ただ、虚無の瞳のまま小さく息を吐いた。
「……そうか。やっと、解放してくれるんだね」
「逃げてもいいんだよ」
「いいや。僕は、もう走るしかない。……この呪われた筋肉が、僕をそうさせるんだ。この筋肉は、壊れるために生まれてきたんだから」
鈴木は立ち上がった。
それはもはや、人間が歩く姿ではなかった。極限の【エアロフォルム】が完成した背骨、血を吸ったように黒ずんだ異形の太もも。彼は自らの意志ではなく、競輪という名の運命に引かれるように、スタートラインへと歩を進めた。
号砲。
9人の選手が、殺意の渦の中に飛び出す。
鈴木の自転車は、他の選手をあざ笑うかのように先行する。
加速。時速80キロ……90キロ……。
大門が、観客席のスイッチを握りしめている。あと少しで、時速100キロに達する。
「死ね……! 鈴木ッ!!」
鈴木は、何も感じていなかった。
ただ、風の音が聞こえる。かつて自分を弄んだ防衛省のプレハブの雨音、宇宙カピバラの断末魔、そして、自分を愛してくれたシルバァの声。
すべてが、この「ペダルを回す」という行為の中に収束していく。
――時速100キロ。
パキィィッ!
乾いた音が響き、鈴木の自転車が、その中心から真っ二つに折れた。
「「「あっ……!!」」」
観客が、期待と恐怖で息を呑む。
高速で走行中に自転車が折れる。それは確定的な「死」を意味する。地面に叩きつけられ、摩擦で肉が消し飛び、残骸となってバンクに散る。
しかし。
鈴木の肉体は、物理法則を否定した。
――【等尺性静止】。
バラバラになった自転車の上で、鈴木は**「ペダルに乗せた足」だけで自転車の残骸を空中に浮かせたまま、座席のない空間で完璧な回転を続けた。**
観客が言葉を失う。
自転車のフレームがない。あるのは、鈴木の脚の間に浮いているチェーンと、両足のペダルだけ。
彼は自転車を失ったのではない。自転車そのものが、彼の肉体の一部として、空気の中に再構築されたのだ。
「そんな……バカな……!! 自転車がないのに、なぜ走れるんだ!!」
大門が絶叫する。
鈴木の脚から発生する暴虐の真空波が、もはや自転車という枠を超え、彼自身の周囲を時空ごと巻き込んで加速していく。
時速150キロ、200キロ……。
もはや競輪ではない。それは、大気圏に突入する隕石のようだった。
鈴木は、血に濡れた顔で、ただ一箇所だけを見ていた。
ゴールライン。
そこには、ただシルバァだけが、静かに、優しく微笑んで彼を待っていた。
――ドンッ!!
鈴木の肉体がゴールラインを駆け抜けた瞬間、発生した衝撃波がバンクを粉砕し、観客席のガラスをすべて吹き飛ばした。
絶対王者は、自転車すら失い、ただ筋肉の暴力だけで「競輪」という競技そのものを消滅させた。
静まり返る会場の中、鈴木は、折れた自転車の残骸と共に、砂煙の中に消えていった。
破滅へのカウントダウンは、残り2話。




