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第97話「元返し(1.0倍)の絶望と、崩壊するギャンブルの帝国」

 ――秋が深まる十一月。

 日本の競輪界は、かつてない異常事態、いや「氷河期」の真っ只中にあった。

 全国各地の競輪場。かつては怒号と歓声、そして欲望が渦巻いていた鉄火場は今、お通夜のような不気味な静けさに包まれていた。

 電光掲示板に表示された、ある選手のオッズ(配当倍率)。

 **【 車番:9 鈴木 オッズ:1.0倍 】**

 1.0倍。ギャンブル用語で「元返し」。

 つまり、100円を賭けて見事的中しても、ただ100円が返ってくるだけ。利益は完全にゼロである。

 どんな公営競技であっても、普通は最低でも1.1倍などはつくものだ。しかし、彼が出走するレースにおいてのみ、システムは冷酷に「1.0倍」を弾き出し続けていた。

 スタートの号砲が鳴る。

 鈴木の肉体は、感情のない自動機械のようにペダルを踏み込んだ。

 【エアロフォルム】による空気抵抗ゼロの姿勢。【アイソメトリック】による完璧なバランス。【メテオ・ストンプ】による爆発的な加速。

 時速100キロを超える暴風が吹き荒れ、他の9人のプロ選手たちが木の葉のように吹き飛ばされていく。鈴木は誰とも競り合うことなく、ただ独走で後続に半周以上の絶望的な差をつけ、無音でゴールラインを駆け抜けた。

 デビューから30戦。**無敗。すべてが「大差」の1着。**

 競輪という競技において、彼の前では「ラインの駆け引き」も「位置取り」も一切無意味だった。ただ彼がペダルを踏めば、物理法則が破壊され、他の選手は風圧で置き去りにされる。それだけだ。

「…………またかよ」

 金網越しにレースを見ていた初老の客が、握りしめていた赤ペンを地面に叩きつけた。

「……面白くねえ。お前が走ると、面白くねえんだよ!! 鈴木ィ!!」

 最初は「税金泥棒」「人殺し」と憎悪をぶつけていた観客たち。彼らは鈴木の落車を願い、他の選手にこぞって金を賭けていた。

 しかし、鈴木が**「絶対に、いかなる妨害を受けようと100%勝つ」**という事実を嫌というほど見せつけられた結果、彼らの態度は変化した。

「空気読めよ化け物! お前が出たらギャンブルにならねえんだよ!」

「どうせお前が勝つんだろ! 車券買うだけ無駄だわ! 帰るぞ!」

 鈴木がレースに出場すると発表された瞬間、そのレースの車券は**「誰も買わなくなる」**のだ。

 鈴木を買っても1.0倍で儲からない。他の選手を買えば100%外れるのでドブに捨てるのと同じ。

 結果として、鈴木が走るレースの売り上げは、過去最低の金額を更新し続けていた。

 JKA本部ビル、最上階のVIPルーム。

 氷室元査察官の顔は、かつての余裕を完全に失い、青ざめていた。

 彼女の目の前のモニターには、目を覆いたくなるような「大赤字」のグラフが映し出されている。

「な、なぜです……。鈴木が勝つのは確定しているのだから、我々が裏で操作して大金を賭ければ、確実に利益が……」

「氷室サン、ギャンブルの基本を忘れちゃ困るぜ」

 JKAの幹部が、葉巻をふかしながら冷酷に言い放った。

「我々の利益(テラ銭)は、客が落とした『外れ馬券・車券』から生まれるんだ。だが、客が【誰も車券を買わない】なら、利益は1円も出ねえ。それどころか、鈴木が起こす暴風で毎日毎日他の選手が落車し、自転車が壊れ、バンクがえぐれる。その修繕費と選手の治療費で、うちはもう破産寸前だ!」

「そ、そんな……! あの『黄金の奴隷』は、私の最高傑作のはず……!」

「お前が連れてきたあの化け物は、競輪という【集金システムそのもの】をぶっ壊しちまったんだよ! 責任取れるのか、元防衛省の役人さんよぉ!」

 氷室は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 権力と嘘で鈴木を徹底的に作り上げ、彼をギャンブルの駒として搾取しようとした。

 しかし、鈴木の肉体は、**「ギャンブルという不確定要素すら、純粋な暴力(筋肉)で100%の確定事象に塗り替えてしまう」**という、搾取する側の理解を超えた概念的兵器に仕上がってしまっていたのだ。

 その日の夜。

 誰もいない冷たい控え室で、鈴木は一人、パイプ椅子に前傾姿勢のまま座っていた。

 外からは「鈴木帰れ!」「競輪を壊すな!」という、ギャンブル狂たちの理不尽な怒号が微かに聞こえてくる。

「(……僕は、また壊した)」

 鈴木は、己の太ももを両手で覆い、静かに涙を流した。

「(防衛省のロボットを壊し、怪獣を壊し、今度はこの競輪という場所すら壊してしまった。僕がペダルを回せば回すほど、みんなが不幸になっていく……)」

 ガチャリ、と扉が開き、シルバァ(3号)が入ってきた。

 彼は自動販売機で買った温かいココアを、鈴木の震える手にそっと握らせた。

「泣いているのかい、鈴木くん」

「シルバァ……僕は、もう走れない。誰も僕が走ることを望んでいない。ただ借金を返すためだけに、意味のない勝利を繰り返して……僕は、いったい何なんだろう」

 シルバァは、鈴木の隣に座り、その異形に湾曲した背中を優しく撫でた。

「君は気づいていないんだね。君が今、どれほど偉大なことを成し遂げているか」

「偉大なこと……?」

「そうさ。あの氷室という女は、君を絶望の淵に追いやり、一生奴隷として搾取しようとした。でも、君の純粋すぎるその『力』は、彼女の作った邪悪な搾取システム(ギャンブル)そのものを、根底から破壊しつつあるんだ」

 シルバァの月明かりのような瞳が、暗い部屋の中で不思議な光を帯びていた。

「君の筋肉は、嘘も、欲望も、利権もすべてを置き去りにする。……彼らは君を恨んでいるんじゃない。君が『絶対に勝つ』という真実の前に、自分たちの欲望が通用しないことに恐怖しているだけさ」

「でも……僕は、みんなから嫌われている。永遠にブーイングを浴び続けるんだ」

「僕がいるよ」

 シルバァは、鈴木の大きな手を両手で包み込んだ。

「世界中が君にブーイングを浴びせても、僕だけは君の勝利に拍手を送る。……さあ、顔を上げて。次が、いよいよ頂点を決める『KEIRINグランプリ』だ。君のその哀しい筋肉で、この狂った箱庭を完全に終わらせてやろう」

 冷たいココアの熱が、少しだけ鈴木の凍りついた心を溶かす。

 もはや誰の夢も背負わず、誰からも愛されない絶対王者。

 だが、彼の横には、ただ一人だけ、彼を「美しい」と呼ぶ宇宙の迷子がいた。

 そして物語は、すべての因縁に決着をつける最終レース(KEIRINグランプリ)へと向かう。

 鈴木が、防衛省のプレハブで刻み込まれた【全27種類の極限マルチタスク】のすべてを解放する、真のラストラン。

 破滅へのカウントダウンは、残り3話。


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