第96話「絶望のデビュー戦と、暴虐の真空波(メテオ・ストンプ)」
――九月。秋の気配が漂い始めたナイター競輪のバンクは、異様な熱気と、どす黒い悪意に包まれていた。
観客席は超満員だった。
しかし、そこにいる誰一人として「純粋なスポーツ競技」を楽しみに来ているわけではない。彼らの目当てはただ一つ。
【税金を850億円無駄遣いし、無抵抗の宇宙動物を惨殺した防衛省の元パイロット(人殺し)が、無惨に敗北して地べたを這いずり回る姿】を見るためである。
「死ねえええっ! 税金泥棒ォォォ!!」
「お前の落車に全財産賭けたぞ!! 骨折って引退しろ化け物!!」
怒号と罵声が、すり鉢状のコンクリート・トラックにこだまする。
その憎悪の坩堝を、最上階のVIPルームから、氷室元査察官が冷たいワインを傾けながら見下ろしていた。
「素晴らしいですね。大衆の愚かな怒りが、そのまま車券の売り上げ(我々の利益)へと変換されていく。……さあ、見せてみなさい鈴木さん。あなたが私にいくら稼がせてくれるのか」
地下の選手控え室。
プロの猛者たちが集う中、鈴木は部屋の隅で、深く前傾した異常な姿勢のまま静かに座っていた。
シルバァ(3号)が手縫いで仕立て直した、継ぎ接ぎだらけのユニフォーム。そこから剥き出しになった太さ120センチの大腿四頭筋は、ただ座っているだけで周囲の空気を歪ませるほどの異様なプレッシャーを放っていた。
「(……チッ、なんだあの身体は。人間じゃねえ)」
「(素人が。競輪は筋肉自慢の品評会じゃねえんだよ。プロの洗礼を浴びせてやる)」
同乗するベテラン選手たちが、鈴木を遠巻きに睨みつけている。
彼らは皆、鈴木の異常な脚力を警戒し、「全員で結託して鈴木を包囲し、絶対に外へ出させない」という暗黙のライン(包囲網)を形成していた。
誰が勝ってもいい。ただ、この「世間のヘイトを一身に集める怪物」だけは勝たせない。それが彼らのプライドだった。
「……行くよ、鈴木くん」
付き人として付き添うシルバァが、鈴木にヘルメットを手渡した。
「外の連中が何を叫ぼうと、君の耳には届かない。君はただ、風と一体になればいいんだ」
「……ああ」
鈴木は、虚無の瞳のままヘルメットを被った。
もはや、怒りも悲しみもない。心は完全に殺した。自分はただ、850億の借金を返すためだけにペダルを回す、血と肉でできた機械なのだ。
選手入場。
鈴木がバンクに姿を現した瞬間、鼓膜を破らんばかりのブーイングと罵声が夜空を震わせた。
空き缶が投げ込まれ、唾が吐き捨てられる。
しかし、鈴木は微動だにしなかった。
ピストバイクに跨り、スタートラインにつく。
両足をペダルに乗せた瞬間、鈴木の脳内で「カチッ」と冷たいスイッチが入る音がした。
「(……【等尺性静止】。筋力拮抗、ミリ単位で固定完了)」
号砲が鳴るまでの数十秒間。
他の選手たちがバランスを取るために小刻みに前輪を揺らす中、鈴木の車体だけが、まるで地面に溶接されたかのように【1ミリも】動かなかった。呼吸による胸の上下すらなく、彫像のように静止している。
その異様すぎる静寂に、罵声を浴びせていた観客たちの声が、次第に気味悪さに飲まれて小さくなっていく。
『バンッ!!』
号砲が鳴った。
一斉にペダルを踏み込む9人の選手たち。
先頭誘導員の後ろで、激しいポジション争いが始まる。ベテラン選手たちは予定通り、鈴木の前、横、斜め後ろを完全に塞ぎ、「絶対に抜け出せない箱」の中に彼を閉じ込めた。
「(かかったな、化け物!)」
隣を走るベテラン選手が、鈴木の肩に向かって強烈な体当たり(ブロック)を仕掛けた。
時速60キロでの接触。普通のルーキーなら恐怖で車体を下げてしまう場面だ。
「(……【イン・コース・ディフェンス】。体幹ロック、肩甲骨固定)」
鈴木の肉体は、感情を介さず自動的に「防衛省のプログラム」を再生した。
腹斜筋をコンクリートのように固め、肩と肘で外からの圧力を無慈悲に押し返す。
「ぐっ!? なんだこいつ、鉄の壁か!?」
体当たりを仕掛けたベテラン選手が、逆に自らの衝撃を倍にして弾き返され、危うく落車しそうになってバランスを崩した。
レースは最終周回(ラスト一周)の鐘が鳴り響く。
残り400メートル。
依然として鈴木は、他の選手たちに四方を囲まれた絶望的なポジションにいた。前に出るスペースはどこにもない。
観客たちが「そのまま潰れろ!!」と狂喜の声を上げる。
「(……【パノラマ・ヴィジョン(展開予測)】)」
鈴木の左右の眼球が、カメレオンのように独立して動き、周囲の選手たちのわずかな筋肉のピクつき、車輪の角度、風の抵抗をすべて同時に演算した。
「(右斜め前、4番の選手の体力が0.2秒後に尽きる。……そこが開く)」
その一瞬の隙間。わずか数十センチの空間。
鈴木は、極限まで固まった背骨をさらに深く沈み込ませ(エアロフォルム)、空気抵抗を完全にゼロにした。
そして。
「(……【ハイパー・ケイデンス】、からの、【メテオ・ストンプ(超絶踏み込み)】)」
防衛省のプレハブで、50トンの機体をマッハの速度で跳躍させるために強制習得させられた、人類の限界を超える大腿四頭筋の爆発。
鈴木が、右足のペダルを「ドゴォォォンッ!!」と踏みちぎらんばかりの力で踏み込んだ!
――バチィッ!!
ピストバイクの極太のチェーンが、悲鳴を上げて引き伸ばされる。
後輪がコンクリートのバンクと強烈に擦れ合い、焦げたゴムの匂いと火花が散った。
次の瞬間。
鈴木の姿が、他の選手たちの視界から「フッ」と消滅した。
「え……?」
ベテラン選手たちが横を見た時、すでにそこに鈴木の姿はない。
彼らが前を向いた時――鈴木はすでに、彼らの遥か数十メートル先を走っていた。
時速70キロが限界とされる競輪において、鈴木の車体は一瞬で【時速120キロ】を突破していた。
凄まじいペダリングが空気を切り裂き、その直後に、鈴木が通り抜けた軌道上に【巨大な真空の衝撃波】が発生した。
「な、なんだこの風はぁぁぁっ!?」
「うわぁぁぁぁっ!!」
鈴木が引き起こした暴虐の風圧に巻き込まれ、後続のプロ選手たちは木の葉のようにバランスを崩し、次々とバンクの斜面に叩きつけられていく。
防衛兵器としての出力を、たかだか7キロの自転車と人間の肉体に対して解放してしまった結果の、圧倒的すぎる惨劇だった。
ゴールライン。
鈴木は、二着の選手に「半周以上(200メートル)」という、競輪の歴史上あり得ない圧倒的な大差をつけて、無音で駆け抜けた。
その後ろでは、強風で落車した選手たちがうめき声を上げている。
――静寂。
数万人が詰めかけた競輪場が、水を打ったように静まり返った。
誰も言葉を発することができない。罵声すら出ない。
彼らが目の当たりにしたのは、人間のスポーツの範疇を完全に破壊する、ただの「災害」だったからだ。
「……」
鈴木は、スピードを緩めてバンクを一周し、ゆっくりと戻ってきた。
呼吸一つ乱れていない。彼にとって、この程度の「本気のペダリング」など、宇宙怪獣を相手にしていた日々に比べれば、散歩以下の負荷でしかなかった。
「……あんなの、競輪じゃねえ……」
観客の一人が、震える声で呟いた。
「あんなバケモンが走ったら……レースにならないじゃないか……!!」
VIPルームの氷室だけが、その完璧な絶望の光景を見て、満足げにグラスを掲げていた。
「素晴らしい。これで、彼が出場するレースの展開は完全に【固定】されました。彼は誰も寄せ付けずに圧勝する。……つまり、ギャンブルとしての競輪は、今日この日をもって【死んだ】のです」
バンクの控え室へと戻る暗い通路。
シルバァが、一枚のタオルを持って静かに鈴木を待っていた。
「おかえり、鈴木くん。君の風、とても冷たくて、哀しかったよ」
「……僕は」
鈴木は、自転車から降りるなり、自らの太ももを血が滲むほど強く掻き毟り始めた。
「僕はっ……!! また、壊した! 人の夢を! この場所の熱を! ギャンブルですら、僕のこの呪われた脚がぶち壊してしまった!!」
化け物になった青年は、暗い地下通路で己の業の深さに泣き崩れた。
彼が勝てば勝つほど、世界は壊れ、誰からも愛されず、孤独だけが深まっていく。
その悲劇を終わらせる手段は、もう残されていないのか。
永遠に続く絶対王者の孤独。
そして、狂った箱庭の真の終焉まで……。
破滅へのカウントダウンは、残り4話。




