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第95話「早期卒業と、仕組まれた賭博の檻」

 ――秋。伊豆の山々が紅葉に染まる頃、日本競輪選手養成所に、異例の「特別早期卒業式」の報が響き渡っていた。

 養成所の歴史上、極めて優秀な成績を収めた者のみに許される早期卒業。

 だが、講堂に集まった候補生たちの顔に、祝福の色は微塵もなかった。彼らの瞳は一様に濁り、まるで圧倒的な天災が過ぎ去るのをただ待つ被災者のように、壇上の「異形」を見上げていた。

「第〇〇期生、鈴木。……成績、全種目において養成所レコードを更新。圧倒的な実力により、特例での早期プロデビューを認める」

 大門教官の声が、静まり返った講堂に響く。

 鈴木は、極限の【エアロフォルム】で固まった背骨のせいで、深くお辞儀をしたような異様な前傾姿勢のまま、卒業証書を受け取った。

 彼の太さ120センチを超える大腿四頭筋は、特注のスーツの生地を今にも引き裂きそうに膨れ上がっている。

「……ありがとうございます」

 鈴木の声には、一切の抑揚がなかった。

 養成所での数ヶ月。彼はただ無心でペダルを回し続けた。その結果、彼の周囲からは誰もいなくなった。模擬レースで鈴木に挑んだ者はすべて、その圧倒的な「風圧」と「絶望的な速度差」の前に心をへし折られ、何人かは自ら自転車を降りて去っていった。

 また、壊してしまった。

 自分は、触れるものすべての夢と希望を粉砕する、呪われた機械なのだ。

 鈴木は、卒業証書を握りしめる手から血が滲むほど力を込めた。

 その日の午後。

 養成所の裏門には、ハイエナのようなマスコミの群れが押し寄せていた。

 情報漏洩により、「あの税金泥棒の元パイロットが、借金返済のために競輪プロデビューする」というニュースが、すでにネットを駆け巡っていたのだ。

「鈴木さん! 国民の血税を無駄遣いしたことについて一言!」

「850億円の賠償金を競輪で返せると思っているんですか!」

「無抵抗の宇宙生物を惨殺した時、どんな快楽を感じていたんですか! 顔を上げてください!」

 フラッシュの豪雨と、容赦ない罵声。

 鈴木はフードを深く被り、前傾姿勢のまま身を縮めた。弁明する気力すらない。何を言っても、彼らには届かない。この世界は、すでに「鈴木というサンドバッグ」を叩く快楽に酔いしれているのだから。

「道を空けろ、愚民ども」

 冷たい声と共に、シルバァ(3号)が鈴木の前に立ち塞がった。

 彼は手にした傘でカメラのフラッシュを冷酷に弾き返し、鈴木の肩を抱いて迎えの車へと押し込んだ。

「……シルバァ、ごめん。僕のせいで、君まで……」

 車の後部座席で、鈴木は震えながら顔を覆った。

「気にするな。彼らは自分の人生が空っぽだから、君の痛みを消費して満たされようとしているだけだ。……君は何も悪くない」

 シルバァは、鈴木の涙を冷たい指ですくい取った。

「さあ、帰ろう。君の新しい『戦場』への準備が待っているよ」

 ――数日後。

 日本の公営競技を統括する巨大組織『JKA』の本部ビル。

 最上階の薄暗いVIPルームで、大門教官は一人の女性に向かって深く一礼していた。

「……報告通り、鈴木は完全に仕上がりました。彼の肉体は、すでに人間の限界を超越しています。どんな展開になろうと、彼が負ける確率は天文学的にゼロです」

 高級な革張りのソファに深く腰掛け、ワイングラスを傾けている女。

 冷たい光を反射する眼鏡。氷室元査察官であった。

 防衛省のロボット計画を崩壊させた後、彼女は巧みに経歴をロンダリングし、今度は莫大な金が動く「公営ギャンブルの元締め」の中枢へと天下りしていたのだ。

「ご苦労様でした、大門教官。やはり私の見込んだ通り、あの『駒』は壊れませんでしたね」

 氷室は、冷たい笑みを浮かべた。

「世間の憎悪は最高潮に達しています。彼がデビュー戦を走れば、日本中から『あいつを負かしてほしい』『あいつが落車するところが見たい』という悪意の金が、他の選手へ大量に賭けられるでしょう。……しかし、彼は絶対に勝つ」

 氷室は、タブレットに映る鈴木の異形な肉体データを見つめた。

「私たちは、その『絶対に当たる車券』の裏で、オッズを操作し、莫大な利益を吸い上げる。彼には850億の借金という首輪がついている。彼が走る限り、我々に無限の富をもたらす『黄金の奴隷』です」

 国家の防衛すら食い物にした冷血な官僚は、今度は青年の「残された人生」を、ギャンブルの盤上の駒として徹底的に搾取しようとしていた。

 同じ頃。

 薄暗い四畳半のアパート。

 鈴木の元に、プロの競輪選手としての証である「ユニフォーム(レーサーパンツとジャージ)」が届いていた。

 しかし、それは彼にとって新たな拷問具でしかなかった。

「……入らない」

 鈴木は、レーサーパンツの裾から、異常発達した自らの太ももを通そうとして、絶望に暮れていた。

 既製品の最大サイズですら、彼の120センチを超える筋肉の前には、ただの子供服のように張り裂けてしまう。

「無理だよ、シルバァ。僕はもう……普通の服すら着られない。人間が着るものなんて、僕には合わないんだ」

 鈴木が自暴自棄にジャージを床に投げ捨てようとした時、シルバァがそれを優しく受け止めた。

「待って。僕が直してあげるから」

 シルバァは、リサイクルショップで買ってきた古いミシンを取り出し、慣れない手つきでレーサーパンツの縫い目を解き始めた。

 彼は、自らの作業着の強靭な布地を切り取り、鈴木の太もものサイズに合わせて、一針一針、丁寧に縫い継いでいく。

 ガタン、ゴトン、という静かなミシンの音が、冷たい部屋に響く。

「……シルバァ。どうして、そこまでしてくれるの」

 鈴木は、前傾姿勢のまま、シルバァの背中を見つめていた。

「僕はただの化け物だ。借金に縛られて、見世物としてペダルを回すだけの、空っぽの機械なんだよ。君まで一緒に地獄に落ちる必要なんてないのに」

「言ったはずだ。僕は君を愛していると」

 シルバァは、ミシンを止め、振り返って静かに微笑んだ。

「この世界中が君を罵り、石を投げ、泥を塗りつけても……僕だけは、君のその哀しい筋肉の美しさを肯定する。君がペダルを回す時、そこに生まれる風は、どんな暴力よりも純粋だ」

 シルバァは、仕立て直したユニフォームを鈴木の歪んだ身体にそっと着せた。

 つぎはぎだらけの、異形のための戦闘服。

 しかしそれは、鈴木にとって初めて感じた「誰かの優しさの形」だった。

「さあ、行こう鈴木くん。君を縛り付けようとする者たちすべてを、君のその神の脚で、遥か後方へ置き去りにしてやればいい」

 孤独な怪物は、月明かりの中で静かに頷いた。

 彼の目には、もう涙はなかった。

 すべてを諦め、すべてを受け入れ、ただ「走る」という純粋な狂気だけが、彼の瞳の奥で冷たく燃え上がり始めていた。

 憎悪と欲望が渦巻く、デビュー戦のバンク。

 絶対王者が、その絶望的な「完成形」を世に解き放つ瞬間まで……。

 破滅へのカウントダウンは、残り5話。


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