第94話「絶望のすり鉢(バンク)と、孤独な死神のペダル」
――八月。伊豆の山々に囲まれた日本競輪選手養成所は、逃げ場のない陽炎と茹だるような熱気に包まれていた。
最大傾斜角30度を超える、すり鉢状のコンクリート・トラック(バンク)。
プロの競輪選手を目指す若者たちが、血反吐を吐き、己の限界を削りながら走る神聖な闘技場である。
だが、今の養成所を支配しているのは「熱血」や「切磋琢磨」といった美しい言葉ではない。ただ一つの、圧倒的で理不尽な【絶望】だった。
「本日の午後のカリキュラムは、模擬レース(競走訓練)だ。……鈴木、前へ出ろ」
大門教官の低い声が響く。
同期の候補生たちの刺すような視線の中、ジャージ姿の鈴木がギクシャクとした歩き方でバンクに現れた。
極限のエアロフォルムで固まった背骨のせいで、彼は常に深く前傾している。その異様な姿は、まるで首を垂れた死神のようだった。
「(エルゴメーターを壊したパワーは認める。だが、競輪はただペダルを重く踏めば勝てる競技じゃねえんだよ!)」
元ラグビー日本代表の経歴を持つ巨漢の候補生が、憎悪に満ちた目で鈴木を睨みつけた。
「(競輪は『ライン(編隊)』の戦術、位置取り、そして時速70キロでの激しい『横の当たり(ブロック)』で勝負が決まる。お前みたいな自転車ド素人の人殺しに、本物のレースの厳しさを教えてやる!)」
候補生たちは事前に密約を結んでいた。
8人のエリート候補生全員でラインを組み、鈴木一人を徹底的にブロックし、バンクの最上段まで押し上げて(包囲して)完全に潰す。そういう作戦だった。
ピストバイク(競輪用自転車)に跨る鈴木。
ブレーキのない固定ギア。防衛省の地獄のプレハブで作られた「アイソメトリック・スタンディング」の技術を持つ鈴木にとって、ペダルに乗せた足を微塵も動かさずに完全に静止することなど、呼吸をするより容易かった。
『号砲』
パーンッ! という乾いた音と共に、レースがスタートした。
一斉にペダルを踏み込む候補生たち。彼らは作戦通り、鈴木の前を塞ぎ、外側から強烈なプレッシャーをかけていく。
元ラグビー選手の候補生が、時速60キロのスピードで鈴木の横にピタリと並び、その強靭な体幹で「ドスッ!」と強烈な【横の当たり(ブロック)】を仕掛けた。
「落ちろ、化け物!!」
――しかし。
鈴木の顔には、一切の感情がなかった。
彼の脳裏にフラッシュバックするのは、数十トンを誇る宇宙イノシシの猛タックルや、Gキャノンの強引な幅寄せである。
「(……軽い。横から来る圧力が……そよ風にもならない)」
鈴木は、極限まで圧縮された腹斜筋をコンクリのようにロックし、肩と肘をわずかに外側へ張り出した(リアクティブ・サイドバンパー)。
ただそれだけで、元ラグビー選手の強烈なタックルは、まるで分厚い鉄扉に生卵をぶつけたかのように、倍の威力で弾き返された。
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
弾き飛ばされた候補生は、バランスを崩してバンクの外側へと吹っ飛び、激しい摩擦音を立てて落車した。
「なっ……当たり負けしただと!? ええい、前を塞げ! 風圧で体力を削れ!」
残る候補生たちが、鈴木の前方に壁を作り、強烈な向かい風を彼に押し付けようとする。
だが、彼らは知らなかった。鈴木が防衛省で、【先行機の背後1センチに張り付く究極の追従】と、【左右の眼球を独立させて数秒後の未来を読み切る展開予測】を、血を吐きながら強制習得させられていたことを。
鈴木は、前を走る候補生の後輪から「ピッタリ1センチ」の距離に機体を滑り込ませた。
風の抵抗は完全にゼロ。
前を走る候補生が不規則に蛇行して引き剥がそうとしても、鈴木の肉体はミリ単位の狂いもなく追従し、一切の体力を消費しない。
「(……これも、あのプレハブと同じだ。僕の身体はもう、どうやって相手を利用し、どうやって最速で息の根を止めるか……その回路しか残っていない)」
最終周回。残り200メートル。
勝負を決する最終コーナーで、候補生たちの体力が尽きかけたその瞬間。
鈴木の、あの宇宙の迷子たちを粉砕し続けてきた「100%の脚力」が爆発した。
大腿四頭筋の踏み込みと腸腰筋の引き足が連動した【ハイパー・ケイデンス】が、ピストバイクの限界を超えたトルクを生み出す。
そしてゴール直前、関節を亜脱臼させるほどの【トライセプス・スラスト(ハンドル投げ)】で、車体を音速で前へ押し出した。
――ヒュゴォォォォォォッ!!
まるで真空の刃のような風圧を残し、鈴木は候補生たちを文字通り「置き去り」にしてゴールラインを駆け抜けた。
タイムは、養成所の歴史はおろか、競輪の世界記録すら数秒縮める異常な数値だった。
走り終えた候補生たちは、バンクの上にへたり込み、ただ呆然と鈴木の背中を見つめていた。
悔しいという感情すら湧かない。ただ、圧倒的で絶対的な「死」のような暴力を前に、彼らのアスリートとしての誇りと心は完全にへし折られていた。
「フ……ハハハハハ!! 素晴らしい!!」
大門教官が、タイムの計測器を握り潰さんばかりの力で握りしめ、狂喜の声を上げた。
「見たか貴様ら! これが『絶対』だ! 努力や才能などという甘ったれた言葉を粉砕する、純粋な暴力の結晶だ!! 鈴木! お前は日本の競輪界を、いや、世界の自転車競技を支配する神になるぞ!!」
しかし、バンクをゆっくりと流しながら戻ってきた鈴木の瞳は、深く暗い絶望の底に沈んでいた。
「……神なんかじゃない」
鈴木は、声の出ない喉を震わせ、誰にともなく呟いた。
「僕はただ……借金を返すために、この呪われたペダルを回すだけの……からっぽの機械だ。……もう、何も壊したくないのに……」
その夜。
養成所の特別個室(大門の配慮により、鈴木とシルバァだけが隔離されていた)。
ベッドの上で前傾姿勢のままうずくまる鈴木の巨大な脚を、シルバァが静かに、そして丁寧にマッサージしていた。
「……今日、三人退所届を出したそうだよ」
シルバァが、ローションを手に馴染ませながら静かに言った。
「君の走りを見て、自分たちが今まで信じてきた『スポーツ』というものが根底から覆されてしまったんだね。君の存在は、彼らの夢を壊してしまった」
「……ほら、やっぱり僕は壊してばかりだ。怪獣も、防衛省の嘘も……そして今度は、夢を持ってここに来た若者たちの未来まで」
鈴木の瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「シルバァ……僕は、この筋肉が憎い。自分が憎い。死んでしまいたいよ……」
シルバァの冷たい指先が、鈴木の涙をそっと拭った。
「死ぬなんて言わないで。君の走りは、誰かの夢を壊したかもしれないけれど……僕にとっては、悲しいほどに美しい『芸術』なんだ」
シルバァは、鈴木の異形に曲がった背中に顔を寄せた。
「君は、誰よりも深く傷ついているからこそ、誰にも追いつけない速さで走るしかない。……その孤独な背中を、僕は最後まで見届けるよ。君が、その呪われた鎖から完全に解放される、その日まで」
月明かりだけが差し込む冷たい部屋。
人間であることを奪われた青年は、ただ一つの理解者の冷たい腕の中で、声もなく泣き続けた。
競輪界のすべてを蹂躙し、絶望の「絶対王者」として君臨するデビュー戦まで……。
破滅へのカウントダウンは、残り6話。




