第93話「狂気の入所試験と、砕け散る鉄の檻(エルゴメーター)」
――七月。茹だるような湿気と熱を孕んだ風が、伊豆の山々を吹き抜けていた。
静岡県伊豆市、日本競輪選手養成所(JIK)。
プロの競輪選手を目指す若者たちが、血と汗と涙を流すこの神聖な施設の門の前に、季節外れの分厚いロングコートを羽織り、深くフードを被った男が立っていた。鈴木である。
極限まで湾曲して固まった背骨を隠すため、そして、ズボンの生地を内側から引き裂かんばかりに肥大化した異形の太ももを隠すためのコートだった。だが、それでも彼の異常な前傾姿勢と、ギクシャクとした歩き方は隠しきれない。
「……息苦しいかい、鈴木くん」
傍らを歩くシルバァ(3号)が、優しく日傘を差し掛けた。彼もまた、鈴木の「付き人」という名目で養成所への同行を許されていた。
「……いや。外の空気より、他人の視線の方が息苦しいよ」
養成所の敷地内を歩くエリート候補生たちが、遠巻きに鈴木を指差してヒソヒソと囁き合っていた。
「おい、見ろよあれ……ネットで顔割れしてた、防衛省の元パイロットだろ」
「あんな罪もない怪獣を惨殺した人殺しが、なんで神聖なバンクにいるんだよ」
「850億の借金返すために競輪やるってウワサ、マジだったのか。舐めんなよ、競輪は犯罪者の更生施設じゃねえぞ」
剥き出しの敵意と侮蔑。
鈴木はフードを深く被り直し、ただ黙って視線を落とした。
(分かっている。僕はこの社会の汚物だ。でも……借金を返さなければ、家族が破滅する。僕は、この狂った筋肉を金に換えるしか、生きる道がないんだ……)
入所試験会場。室内トレーニングルーム。
今年の特別選抜枠には、元オリンピック選手、陸上競技の日本記録保持者、プロラグビー選手など、名だたるトップアスリートたちが集結していた。彼らは皆、己の肉体美と才能に絶対の自信を持っている「完璧な人間たち」だった。
その中心で、特別主任教官の大門が腕を組んで立っていた。
「これより、最大パワー測定を行う。このエルゴメーター(測定用エアロバイク)で、己の出せる限界のワット数(仕事量)と、最大回転数を計測する。……人間の限界を超えた者だけが、プロのバンクを走る資格を得る」
アスリートたちが次々とバイクに跨り、野獣のような咆哮を上げてペダルを全力で回す。
「ウオォォォォッ!!」
『最大出力:1800ワット! ケイデンス:190RPM!』
測定器のモニターに叩き出される凄まじい数値に、歓声が上がる。競輪のトッププロに匹敵するパワーだ。
「次、鈴木」
大門の冷徹な声が響いた。
静まり返る室内。軽蔑と嘲笑の視線が集中する中、鈴木はゆっくりと歩み出た。
そして、羽織っていた分厚いコートを、バサリと床に落とした。
「「「…………!!?」」」
その瞬間、室内の空気が完全に凍りついた。
エリートアスリートたちの顔から血の気が引き、何人かは恐怖のあまり後ずさりをした。
鈴木の肉体は、明らかに「人間」の枠組みを逸脱していた。
首から背骨にかけて、まるで風洞実験の流線型モデルのように異常な角度で湾曲し、固まっている(エアロフォルム)。
大腿四頭筋とハムストリングスは、太さ120センチを超え、皮膚の下で無数の血管が生き物のように蠢いている。
インコースのタックルに耐え抜くために極限まで圧縮された体幹は、もはや内臓がどこに入っているのか分からないほどに引き絞られていた。
「(な、なんだあの身体は……!? あれが人間の筋肉か!?)」
「(気持ち悪い……! あんなの、ただペダルを回すためだけの化け物じゃないか!!)」
怯える候補生たちを無視し、鈴木は無表情のままエルゴメーターに跨った。
サドルに腰を下ろし、ハンドルを握った瞬間。
鈴木の脊髄に、かつての防衛省での【死のマルチタスク】のトラウマがフラッシュバックした。
――150キロのハンドグリッパー。
――ミリ単位で目を独立して動かすパノラマ・ヴィジョン。
――100度のサウナ状態での心肺冷却。
――50トンの機体をマッハから急停止させるバック踏み。
「(……ああ。怖い。また、あの苦痛が始まるのか。また、何かを壊してしまうのか)」
鈴木の呼吸が荒くなる。
しかし、大門は容赦なく開始の合図を出した。
「踏め。ペダルを回せ、鈴木」
鈴木は、目を閉じ、絶望と共に右足のペダルに「踏み込み」の力を伝えた。
――スカッ。
「え……?」
鈴木は、思わず目を開けた。
ペダルが、回った。……いや、「回ってしまった」のだ。
何の抵抗も感じなかった。50トンの機体を引きずるような重さも、トラックの自動追従レーダーによる激重のペナルティもない。
ただ、ペダルがあるだけ。
座席があり、ハンドルがあり、固定ギアの重さしかない。
防衛省の拷問器具に比べれば、この最新鋭のエルゴメーターの負荷など――【羽根のように軽かった】のだ。
「(軽い……なんだこれ……何も、無理をしていないのに……勝手に回る……!!)」
鈴木の脳内で、抑圧されていた「ペダリングの完全な回路」が弾け飛んだ。
彼の大腿四頭筋の踏み込み(メテオ・ストンプ)と、腸腰筋による強烈な引き足が完全に連動。
さらに、上半身を1ミリもブレさせない体幹のロックが、すべてのエネルギーを逃さずにペダルへと叩き込む。
ギュルルルルルルルルルッ!!!!
突然、エルゴメーターから、ジェット機のタービンエンジンのような異常な駆動音が鳴り響いた。
「なっ……!?」
大門が目を見開く。
モニターの数値が、常軌を逸した速度で跳ね上がっていく。
2000ワット……3000ワット……5000ワット……!!
ケイデンス:250RPM……300RPM……400RPM!!
「(嘘だろ……! 自転車のペダルって、こんなに簡単に回るものだったのか……!!)」
鈴木は、感情の抜け落ちた顔のまま、ただ「最適な軌道」で両足を回し続けた。
しかし、人類の限界を測定するために作られたエルゴメーターは、初めから【50トンの巨大ロボットを人力で動かす怪物】のパワーを受け止めるようには設計されていなかった。
バキバキバキッ!!
凄まじいトルクと回転数に耐えきれず、内部の駆動ベルトが千切れ飛んだ。
さらに、鈴木の「踏み込み」のワット数が限界を超えた瞬間、摩擦熱でブレーキパッドが発火。
測定器のモニターは『ERROR:MEASUREMENT LIMIT EXCEEDED(測定限界超過)』という赤い文字を点滅させた直後、ショートして「パンッ!」と破裂した。
――ガシャンッ!! 轟ォォォォッ!!
最終的に、エルゴメーターは物理的にひしゃげ、内部から黒煙と炎を吹き上げて完全に【大破・炎上】してしまったのである。
シン……。
煙が立ち昇る室内。
燃え上がる残骸の上に跨ったまま、鈴木は虚無の瞳で宙を見つめていた。息一つ切らしていない。汗一滴流していない。
ただ、機械が彼の筋肉に耐えきれずに自壊しただけだった。
「ひ、ヒィィッ……!!」
「化け物だ……! 機械が粉々になったぞ……!!」
完璧な肉体を持っていたはずのエリート候補生たちが、床に尻餅をつき、恐怖でガタガタと震え上がっていた。
彼らは理解したのだ。自分たちは「スポーツ」をしているが、あの男は「次元の違う暴力を、自転車という形で出力しているだけ」の、正真正銘の怪物なのだと。
「……フ、フフ……ハハハハハハッ!!」
静寂の中、大門だけが、狂気に満ちた歓喜の笑い声を上げた。
「見たか! これが本物だ! 人の形を捨て、自転車と融合した『神の脚』だ!! 合格だ、鈴木! 君は今日から、この養成所の頂点だ!!」
賞賛でも、羨望でもない。
ただ、見世物小屋の獣を見るような、歪んだ狂乱の渦。
「(……ああ。やっぱり、僕は何も変われないんだ)」
鈴木は、炎上する鉄の残骸から降り、自らの両手を見つめた。
「(この世界から怪獣が消えても……防衛省の嘘が暴かれても……僕は一生、この狂った檻の中で、何かを壊し続けるだけの『化け物』のままなんだ)」
絶望の淵に沈む鈴木の肩に、そっと、冷たいコートが掛けられた。
シルバァだった。
彼は、怯える人間たちを冷たい目で見下ろした後、鈴木の耳元で優しく囁いた。
「君は、誰の檻にも囚われない。彼らが君を化け物と呼ぶなら、僕が君の唯一の理解者でいよう。……君の本当の美しさは、あの愚かな機械のメーターなんかじゃ測れないんだから」
シルバァの残酷なまでの愛の肯定が、鈴木の狂気を静かに安定させていく。
人間としての形と尊厳を失った青年は、競輪界という新たな闘技場で、誰も止めることのできない「絶対王者」への道を歩み始めた。
永遠のブーイングが響き渡る、そのゴールラインへ向けて。
破滅へのカウントダウンは、残り7話。




