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第92話「泥濘(でいねい)の石礫(いしつぶて)と、神の脚を見出す眼」

 ――六月。梅雨の長雨が、嘘にまみれた東京の街を灰色の泥で沈み込ませていた。

 防衛省と国交省の癒着、そして「巨大未確認生物は無害な動物であった」という真実が暴露されてから数週間。日本中を吹き荒れた怒りの熱狂は、今もなお冷める気配がなかった。

 行き場を失った国民の憎悪は、雲隠れした氷室査察官や官僚たちではなく、最も分かりやすい「サンドバッグ」へと向けられていた。

 都内の寂れた建設現場。

 冷たい雨の中、交通整理のアルバイトをしている男がいた。元アースディフェンダーのパイロット、鈴木である。

 彼は、警備員の制服を無理やり身にまとっていたが、その姿は異様だった。太ももが異常に肥大化しているためズボンの両脇は完全に切り裂かれ、さらに【エアロフォルム】で固まりきった背骨のせいで、彼は常に「上半身を地面と水平に深く折り曲げた前傾姿勢」のまま、ギクシャクと歩くことしかできなかった。

「……おい、見ろよあの誘導員。めちゃくちゃキモい歩き方してんな」

「腰曲がってんの? てか、あの脚の筋肉……異常だろ」

 信号待ちをしていた若者たちが、スマートフォンを向けてクスクスと笑う。

 その中の一人が、ハッと息を呑んだ。

「……なぁ、あいつ。ネットで晒されてた『アースディフェンダーのパイロット』じゃねえか?」

「マジだ! あの、税金800億以上使って、無抵抗の宇宙カピバラを惨殺した人殺し!!」

 若者の一人が、飲みかけの缶コーヒーを鈴木に向かって力任せに投げつけた。

 ガコンッ!

 濁った茶色の液体が、鈴木の顔面にぶちまけられる。

「税金泥棒! てめえのそのキモい筋肉作るために、俺たちの金が使われてたんだろ!!」

「人殺しの化け物が、堂々と外歩いてんじゃねえよ!!」

 通行人たちの冷たい視線と、容赦のない罵声が雨音に混じって鈴木を打ち据える。

 かつての鈴木なら、理不尽に怒り、反論したかもしれない。だが、今の彼は何も言わなかった。缶コーヒーの汚れを拭おうともせず、深く曲がった背中のまま、ただ泥水を見つめていた。

「(……その通りだ。僕は化け物だ。何も知らなかったとはいえ、あの弱い命を奪ったのは……僕のこの狂った身体なんだから)」

 鈴木は、己の罪を噛み締めるように、ただ黙って石礫いしつぶてに耐え続けていた。

 その夜。取り壊し寸前の四畳半アパート。

 シルバァ(3号)は、濡れたタオルで鈴木の顔の泥とコーヒーの汚れを優しく拭き取っていた。

 裸電球の下で震える鈴木の背中は、もはや人間の骨格の美しさを完全に失っている。

「……リリン(人間)たちは、本当に残酷で愚かな生き物だね」

 シルバァは、悲しげに目を伏せた。

「自分たちの不安や怒りを正当化するために、共通の『敵』を作り出し、集団で石を投げる。君がどれだけ彼らのために自己を犠牲にしてきたか、知ろうともせずに」

「……いいんだ、シルバァ」

 鈴木は、虚ろな目で宙を見つめていた。

「僕は罰を受けているんだ。あんな優しい生き物たちを、僕の『殺すためだけに最適化された筋肉』で叩き潰してきた罰だ。……この背中も、この脚も、一生元には戻らない。僕は一生、泥を這いずって生きていくしかないんだ」

 シルバァは、鈴木の異常に隆起した大腿四頭筋にそっと手を触れた。

「君は自分を呪っている。でも、この筋肉は罪の象徴じゃない。君の哀しいまでの『生きる意志』そのものだ。……僕は君を愛しているよ、鈴木くん。この狂った世界で、君の魂だけが純粋だから」

 シルバァの月明かりのような瞳に見つめられ、鈴木の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「シルバァ……僕は、自分が怖いんだ。またペダルを踏めば、僕は自分の意思とは関係なく、何かを破壊してしまう。……もう、二度と自転車には乗りたくない」

 ――その、静かな悲劇の空間を。

 コンコン、と。遠慮のないノックの音が引き裂いた。

 シルバァが警戒してドアを開けると、そこには黒いスーツを着た、白髪交じりの初老の男が立っていた。

 男の目は鷹のように鋭く、一切の隙がない。ただ者ではない空気をまとっていた。

「……夜分にすまない。鈴木君だな?」

 男は、土足のまま四畳半の部屋に入り込み、床で前傾姿勢のまま固まっている鈴木を上から見下ろした。

 その鋭い視線が、鈴木の「曲がった背骨」「巨大なハムストリングスと大臀筋」「極限まで絞り込まれた体幹」を、まるで美術品を鑑定するかのように舐め回す。

「あんたは、誰だ」

 シルバァが鈴木をかばうように前に出たが、男は意に介さず、一枚の名刺を床に投げ捨てた。

 そこには、【日本競輪選手養成所(JIK) 特別主任教官・大門だいもん】と記されていた。

「大門……競輪の、教官……?」

 鈴木がうわ言のように呟く。

「世間の連中は目が腐っている」

 大門は、低い地鳴りのような声で言った。

「ニュースに映った君の姿を見て、連中は『化け物』だの『税金泥棒』だのと騒ぎ立てた。だが、私は違った。防衛省から流出したアースディフェンダーの戦闘記録……その未加工のバイタルデータと、君の機体制御の映像を見た時、私は震えが止まらなかったよ」

 大門は、鈴木の異形に膨れ上がった太ももを指差した。

「引き足と踏み込みを完全に連動させる『腸腰筋』。強烈な横の当たりに耐え抜く『体幹と骨盤のロック』。マッハの慣性を殺す『バック踏み』。そして何より、風の抵抗を極限までゼロにするその『エアロフォルムの背骨』……」

 大門の瞳に、狂気にも似た熱情が宿る。

「君のその身体は、防衛兵器としては欠陥品だったかもしれない。だが、こと【トラックレーサー(自転車競技)】という盤上においてのみ言えば……それは『神の肉体』だ」

「……帰ってくれ」

 鈴木は、両耳を塞いだ。

「僕はもう、自転車には乗らない。ペダルを回せば、人を……何かを壊してしまう。僕はもう、何も壊したくないんだ!!」

 鈴木の悲痛な絶叫を聞いても、大門は表情一つ変えなかった。

「壊したくない、か。……なら、君のその【850億円】の借金はどうするつもりだ?」

「!」

「君の人生は、すでに国交省と防衛省によって完全に破壊され、社会的に抹殺されている。交通整理のバイトで、一生泥水をすするのか? ご家族に借金の取り立てが向かってもいいのか?」

 鈴木の顔から、一瞬で血の気が引いた。氷室が残していった連帯保証の呪縛。

「君のその『化け物』の身体を、合法的に金に換えることができる場所。……それが【バンク(競輪場)】だ」

 大門は、鈴木の顔を無理やり上げさせ、その絶望に染まった瞳を覗き込んだ。

「君に拒否権はない。君の肉体は、我々『競輪界』が買い取った。来週、日本競輪選手養成所の特別入所試験を受けに来い」

「……」

「すべてを失い、人間の形すら失った君が生き残る道は、もう『ペダルを回す』ことしか残されていないんだよ。……運命を受け入れろ、鈴木」

 大門はそれだけ言い残し、冷たい雨の降る闇の中へと消えていった。

 残された四畳半の部屋。

 鈴木は、己の太ももを抱きしめながら、声もなく泣き崩れた。

 逃げることなどできない。あの狂気のプレハブで作られた「自転車を漕ぐためだけの肉体」は、社会から拒絶され、結局は「自転車を漕ぐための血みどろの檻」へと引き寄せられていく。

「泣かないで、鈴木くん」

 シルバァが、鈴木の涙を指ですくい取る。

「君は、誰かの道具じゃない。もし君が再びペダルを回すなら、それは誰かを殺すためではなく……君自身が自由になるために回すんだ。僕も一緒に行くよ。地獄の底まで」

 すべてを奪われた青年は、忌まわしき「ペダル」という名の十字架を背負い、再び立ち上がることを強いられた。

 理不尽な英雄から、哀しき怪物へ。そして……孤独な絶対王者へ。

 破滅へのカウントダウンは、残り8話。


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