第90話「真実のミカンと、崩壊する虚構の帝国」
――冷たい雨が、新宿のコンクリートを黒く濡らしていた。
都庁前広場。
全長50メートルの巨大な球体――宇宙ダンゴムシは、ただ怯えたように身を縮め、小刻みに震えていた。
その周囲を、国交省のGキャノンが重武装の砲門を向けて包囲している。しかし、彼らは撃たない。防衛省の「処刑人」が到着し、派手な戦闘(という名の街の破壊)が始まるのを、特等席で待っているのだ。
『……目標、捕捉』
雨のカーテンを引き裂き、アースディフェンダーが音もなく滑り込んできた。
窓のないコクピット。吹きさらしの暴風雨の中、鈴木の肉体は【極限のエアロフォルム】を保ち、地面と水平に張り付いていた。
「(心拍数、正常。ペダル回転数、毎分300。関節のサスペンション、機能維持……ああ。僕はもう、心臓の音すらギアの駆動音にしか聞こえない)」
鈴木の瞳からは、すでに光が失われていた。
泣き叫ぶ自我を、極限まで調教された筋肉が物理的に封じ込めている。悲しいのに、涙すら流せない。ただ、自転車を最速で漕ぐための「生きた臓器」として、彼の身体は完璧な軌道を描いていた。
背後で、シルバァ(3号)が雨に濡れながら、鈴木の冷たい背中を抱いていた。
「君の筋肉が、悲鳴を上げている。本当は誰も殺したくないと、細胞が泣いているよ……鈴木くん」
「(……止まれないんだ、シルバァ。僕の身体はもう、僕のものじゃない……)」
鈴木は、右腕の【限界突破パイルバンカー(杵)】を構え、無抵抗の宇宙ダンゴムシに向けて、最期のペダルを踏み込もうとした。
――その時だった。
「おばあちゃん、危ないっ!!」
広場の隅。避難誘導から取り残されていた一人の老婆が、雨に足を滑らせて転倒した。
その拍子に、彼女が抱えていたスーパーの買い物袋から、コロコロと「オレンジ色の球体」がこぼれ落ちた。
特売品の、ただの【ミカン】だった。
アスファルトを転がったそのミカンは、コツン、と。
ほんのわずかな衝撃で、怯えて丸まっていた宇宙ダンゴムシの分厚い装甲(に見える皮膚)にぶつかった。
『……ピィ?』
宇宙ダンゴムシが、不思議そうにミカンを見つめた。
ミカンの皮から、極微量の「リモネン(柑橘類の成分)」が雨水に溶けて蒸発する。
今まで、人類の最新兵器や、鈴木の狂気的な筋肉の暴力でしか倒せないとされてきた、国家の存亡を脅かす脅威。
ただの柑橘類の汁など、巨大生物の前では無にも等しいはず――。
――ピキッ。
『キュ、キュルルルルルゥゥゥゥッ!?!?』
なんと、ミカンの成分に触れた箇所から、宇宙ダンゴムシの身体にガラスのようなヒビが入り始めたのだ!
宇宙ダンゴムシは「痛い! 溶けるぅぅぅ!」とばかりにパニックを起こし、自らの身体をバタバタと悶えさせた。しかし、そのわずかな抵抗すら自らの脆弱な身体を破壊し――。
パリーーーンッ!!!
まるで飴細工が割れるような甲高い音と共に、宇宙ダンゴムシは、ミカン1個の直撃によって木っ端微塵に砕け散り、雨の中に光の粒子となって消滅してしまったのである。
「「「…………えっ?」」」
現場のGキャノン、老婆、コクピットの鈴木、そして……。
ビルの屋上から、その一部始終を【高画質ライブ配信】していた週刊誌の記者、橘のカメラの向こう側にいる、数百万人の視聴者が。
日本中のすべてが、完全にフリーズした。
沈黙を破ったのは、橘のカメラに向けた絶叫だった。
「国民の皆さん!! 見ましたか!! 今、怪獣は……ただの『ミカン』で死にました!! 防衛省も国交省も、我々を騙していたんです!! 奴らは、ミカン一個で死ぬほど弱い、ただの宇宙の迷子だったんです!!」
防衛省のプレハブ司令室。
モニター越しにその光景を見ていた氷室査察官の顔から、ついに血の気が引いた。
彼女は狂ったようにキーボードを叩き、全国の放送局と防災スピーカーをハッキングしようとした。
『ち、違います!! 今のは極めて恐ろしい【超高濃度シトラス・メルトダウン】です!! あのダンゴムシはミカンの酸を利用して空間を融解させようと――』
しかし、その氷室のアナウンスは、SNSの爆発的な濁流によって一瞬で飲み込まれた。
ライブ配信のコメント欄が、怒りと嘲笑で埋め尽くされていく。
【は? ミカンで死んだぞ今】
【シトラスメルトダウンwww 苦し紛れすぎるだろwww】
【じゃあ今まで街が壊れてたのは何だったんだよ!?】
【Gキャノンが自分で撃ってたのを見た! マッチポンプだ!】
【税金返せ!! 防衛省も国交省も解体しろ!!】
「……終わり、ですね」
誰もいなくなったプレハブの中で、氷室はゆっくりと眼鏡を外し、モニターの電源を切った。
彼女はすぐさま、用意していた「裏帳簿のデータ」と「責任をすべて炎城とトヨハタになすりつける偽造証拠」をUSBメモリに保存し、暗闇の中へと姿を消した。
――新宿・都庁前広場。
雨は、まだ降り続いている。
鈴木は、ペダルを踏む足を止めていた。
目の前には、ミカンが一つ、虚しく転がっているだけだ。怪獣はいない。
彼が命を懸けて、身体の形を変えてまで戦い続けてきた脅威の正体は、スーパーで一袋398円で売られている果物以下の耐久力しかなかった。
「……あ、ああ……」
鈴木の口から、乾いた空気が漏れる。
彼は、自らの両腕を見つめた。異常に発達した三頭筋。丸太のように太くなった脚。歪んだまま固まった背骨。
人間の尊厳をすべて捨て去り、国民の嘲笑に耐え、借金を背負わされながらも、「地球を守るため」だと自分を騙して手に入れた、この強靭な肉体。
「……全部、嘘だったのか……?」
鈴木の悲鳴のようなつぶやきが、雨音に溶ける。
「僕が……僕が人間じゃなくなったのは……ミカンで死ぬ生き物を倒すためだったのか……? 僕の人生は、いったい何だったんだ……!!」
鈴木は、コクピットの床に崩れ落ち、自らの異形な太ももを何度も何度も拳で叩きながら、獣のように泣き叫んだ。
その姿は、英雄でもなんでもない。ただ大人たちの欲望の箱庭で弄ばれ、壊されてしまった哀れな青年の絶望だった。
「泣かないで、鈴木くん」
シルバァが、雨に濡れながら鈴木の背中に覆いかぶさり、その震える身体をきつく抱きしめた。
「嘘の帝国は終わった。君を縛り付けていた鎖は、今、解き放たれたんだ」
「シルバァ……! 僕は……僕はどうすればいい! この化け物みたいな身体で、明日からどう生きていけばいいんだ!!」
「君は化け物なんかじゃない。君は、誰よりも純粋に生きようとしただけだ。……この美しい筋肉は、これから君自身のために使う時が必ず来る」
シルバァの冷たい頬が、鈴木の頬に触れる。
そのぬくもりだけが、暗闇の中で鈴木を繋ぎ止める唯一の光だった。
橘のライブ配信は、暴走したGキャノンが逃走を図る姿と、雨の中で動かなくなったアースディフェンダーの姿を映し出し、ついに数千万人の視聴者を突破した。
翌朝。
日本中のメディアが「防衛省・国交省の世紀の大疑獄事件」を一斉に報じた。
国会は空前の大混乱に陥り、炎城司令官は涙ながらに証人喚問に立たされ、トヨハタ自動車の株価はストップ安のまま完全に紙切れとなった。
ロボット計画は即座に解体。
しかし、巧妙に証拠を隠滅した氷室査察官の姿はどこにもなく、鈴木に残されたのは「防衛省の品位を汚した罰金」という理不尽な借金と、社会に放り出されたという絶望的な現実だけだった。
すべての虚構が崩れ去り、無職の筋肉の怪物となった鈴木。
彼が真の「絶対王者」として覚醒するその場所へ辿り着くまで……。
破滅へのカウントダウンは、残り10話。




