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第89話「告発のプレリュードと、箱庭の生贄」

 ――深夜。防衛省の地下深く、氷室査察官の執務室は、冷たいブルーライトの光に沈んでいた。

 彼女の目の前にある巨大なモニターには、ある動画投稿サイトの画面が映し出されている。

 タイトルは、『巨大未確認生物の真実。我々は何を殺しているのか』。

 投稿者は匿名だが、氷室にはそれが週刊誌『真相追及』の記者、橘であると分かっていた。

 動画は数秒の短いクリップだった。上野公園の不忍池で、宇宙カピバラがただ温泉に浸かり、穏やかに目を細めている映像。そして次の瞬間、それをアースディフェンダーが無慈悲に粉砕する決定的な瞬間が、加工の一切ない生々しさで記録されていた。

「……再生回数、すでに30万回」

 氷室は無機質な声で呟き、キーボードを叩いた。防衛省のサイバー部隊を動かし、動画を強制削除し、投稿者のIPアドレスを物理的に遮断する。数分後、動画は「利用規約違反」としてネットの海から消え去った。

 しかし、一度火のついた疑念は、SNSの裏側で確実に拡散され始めていた。

 デスクの直通電話が鳴る。国交省の事務次官からだった。

『見たか氷室くん! あの動画はなんだ! 奴らはただの動物だと、国民にバレかかっているじゃないか! このままでは我々のメガロポリス再編計画が……!』

「落ち着きなさい。動画は既に消去しました。ネットの噂など、次の『大々的な脅威』を演出すればすぐに上書きできます」

『橘とかいう記者はどうする!』

「……彼には、もう二度とペンを握れないよう、こちらで『手配』を済ませています。それよりも、次の出撃の準備を」

 電話を切った氷室は、暗い窓ガラスに映る自分の顔を冷酷に見つめた。

 嘘の帝国に、軋むようなヒビが入り始めている。それを塞ぐためには、さらなる血と恐怖が必要だった。

 同じ頃。プレハブ仮設司令室の裏手にある、カビ臭い機材倉庫。

 そこが、今の鈴木に与えられた「部屋」だった。

 薄暗い豆電球の下、鈴木はベッドの端に座り、己の肉体を見つめていた。

 太ももの周囲は120センチを超え、皮膚を突き破らんばかりに血管が脈打っている。背骨は完全に湾曲して固まり、もう人間のように真っ直ぐ立つことすらできない。ただ「自転車に乗り、風の抵抗をなくすため」だけに最適化された、哀れな異形の肉塊。

「……はは……」

 鈴木は、乾いた声で笑った。

「僕の身体、もう人間じゃない。ただの、ペダルを回すための『臓器』だ。……防衛省の、機械の部品だ」

 部屋の闇の中から、シルバァ(3号)が静かに歩み寄り、鈴木の足元にひざまずいた。

「人間であることを捨てるのは、そんなに恐ろしいことかい? 鈴木くん」

「シルバァ……」

「リリン――人間たちは、自分たちの作り上げた虚構ルールの中でしか生きられない、弱い生き物だ。その弱さを隠すために、彼らは嘘をつき、他者を傷つける。……でも君は違う」

 シルバァは、冷たい指先で鈴木の異常に発達した大腿四頭筋をそっと撫でた。

「君のこの肉体は、他者の悪意をすべて受け止め、それでも前に進もうとした君の『純粋な魂の結晶』だ。醜いなんて言わないでくれ。僕にとって、君は誰よりも美しい、完全な生命体だ」

「……やめてくれ。僕は、自分が怖いんだ。ペダルを見ると、頭が真っ白になって、ただ『最速で殺すための動き』をしてしまう。僕にはもう、感情がないみたいだ」

「感情がないんじゃない。悲しみに耐えきれなくなって、心が蓋をしただけさ。……君の悲しみは、僕がすべて分かっているよ」

 シルバァの瞳に吸い込まれそうになったその時。

 ギィッ、とサビた鉄の扉が開き、氷室が姿を現した。

「傷の舐め合いは終わりましたか、鈴木さん」

「……氷室、査察官」

 鈴木は、濁った目で氷室を見上げた。

「僕は、もう乗りません。あんな弱い生き物を、利権のために殺すなんて……もう、嫌だ」

 氷室は表情一つ変えず、懐から一枚の書類を取り出し、鈴木の足元に投げ捨てた。

「あなたの現在の借金総額は、度重なる機体損壊と国交省への賠償により【850億円】に達しています。そして、この『特別身体改造同意書』。あなたは入隊時、国家の資産として肉体を捧げることにサインしている」

「そんなもの、騙されて……!」

「騙されたあなたが悪いのです。乗らないというのなら、あなたを国家反逆罪で地下の実験施設に送ります。あなたのご家族も、借金の連帯保証人として……どうなるか、分かりますね?」

 鈴木の瞳から、最後の光が消え失せた。

 自分には、逃げ道などどこにもない。初めから、この狂った箱庭の中で死ぬまでペダルを回し続ける運命だったのだ。

「……出撃は、明日です。おそらく、これがあなたの『最後の大舞台』になるでしょう」

 氷室は冷酷に言い捨て、闇の中へ消えていった。

 翌朝。

 東京は、鉛色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうな空をしていた。

『緊急事態発生です……』

 司令室のモニターの前で、佐藤が震える声で報告した。もはや炎城司令官はそこにおらず、ただ氷室だけがモニターを見下ろしている。

『新宿・都庁前広場に、巨大未確認生物74号が出現。……全長50メートルの、【宇宙ダンゴムシ】です』

 モニターに映し出された宇宙ダンゴムシは、ただ怯えたように体を丸め、巨大な球体となって都庁前の広場で震えているだけだった。何の破壊活動もしていない。ただ、そこにあるだけだった。

「国交省のGキャノンは?」

「……すでに現場に到着しています。ですが、今回はなぜか攻撃を仕掛けず、周囲を包囲しているだけです」

「……そう。国民の目を引くための『最高の舞台』が整いましたね。出撃しなさい、鈴木さん。あの無害な球体を、全国民の目の前で粉砕するのです」

 駐輪場。

 雨がパラつき始めた中、鈴木はアースディフェンダーのコクピットに這い上がった。

 シルバァが、黙ってその後ろに寄り添う。

「……行くよ、シルバァ」

「ああ。君の心のままに」

 もはや言葉すら必要なかった。

 鈴木の肉体は、完全に感情と切り離された自動機械オートマタのように、ただ完璧な乗車姿勢を取り、無音でペダルを踏み込み始めた。

 同じ頃。

 新宿の高層ビルの屋上で、橘記者はカメラのファインダーを覗き込みながら、震える手で動画のライブ配信ボタンを押した。

「……防衛省の刺客は、撒いた。今から、この真実をすべて全国ネットに流す。この狂った茶番劇を、俺が終わらせてやる」

 怯える巨大なダンゴムシ。

 それを破壊しようと迫る、哀しき筋肉の怪物。

 そして、すべてを暴露しようとするカメラのレンズ。

 崩壊の時は、すぐ目の前まで来ている。

 破滅へのカウントダウンは、残り11話。


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